2022年6月26日日曜日

七夕論考

 七夕までに各家庭で飾りをつくってくるようにと、孫が幼稚園で言われたらしい。もち帰ったプリントには、牛乳パックやスズランテープを使って好きなようにつくるようにと書かれていた。どうやら、仙台や平塚の七夕祭りの飾りのようなものをもち寄って吊るすようだ。立体工作が苦手な娘は、そそくさとプリントを私に押しつけ、「任せた!」の一言。

 七夕の飾りは一時的なもので、終わればすぐにごみになる。新たな物は買うまいと心に決めて、うちにある不用物を総動員することにした。七夕に関しては以前に伝説をかなり調べたことがあるので、真っ先に思いついたのが上部のくす玉状のものを上弦の月の船にすることだった。吹き流しは、何年か前に買った大判の小川和紙がまだ1枚そのまま残っているので、それを細く切って色をつけることにした。大量の絵の具が必要になるが、これまた以前に浮世絵のベロ藍(プルシアン・ブルー)について調べたとき、つい買ったまま用途を見いだせなかった染料があるので、これの出番にすることにした。そこに娘が以前つくってくれた消しゴムスタンプのカササギを飛ばし、適当に金銀の星を捨てずに取ってある大量の包装紙から切り抜いて散らす、というのが私の案だった。

 ところが、肝心の孫は不服そうで、「電車がいい」とのこと。そこで、吹き流しの何本かには線路を描き、そこに銀河鉄道を走らせることにした。これも、やはり買ったまま使い道のなかったメタリックのセタカラーで描き、孫に筆で枕木を入れてもらった。列車は娘が切り絵でつくった。ゴディバの包装紙でくるんだ上弦の月は、巨大なムーンスティックのようで、見れば見るほどおかしい代物になった。吹き流しの上部の凧糸がいやに目立ってしまうため、七夕らしく緑・紅・黄・白・黒の5色に塗り分けた。孫と遊びながらの紙工作は楽しく、わが家の不用物が断捨離でごみになる前にアップサイクルできたのはよかった。追加で支払ったのは、Photoshopで増殖したカササギの画像を、水に濡れても滲まないようにコンビニでカラーコピーした50円と、足りなくなったボンド・糊のみだった。  

 この工作に当たって、2014年に書いてフェイスブックだけで公開した私の「七夕論考」を読み返してみたら、結構詳しく調べていたので、かなり長文だが改めてブログに掲載しておくことにする。調べ直していないので、誤字・脱字や勘違い等々あるかもしれないが、お時間のあるときにお読みいただければ幸いだ。 

 ***** 七夕論考        2014.07.06  

 七夕伝説について少々調べてみた。織女・牽牛という名称が記された最古の文献は、『詩経』の小雅の「大東」と言われている。『詩経』は殷(商)から春秋時代までの詩を、紀元前470年ごろに孔子が編纂したされる。  

維天有漢、監亦有光 これ天に大河あり、見ればまた光あり  
跂彼織女、終日七襄 爪先立つ織女は、終日七回移動する  
雖則七襄、不成報章 すなわち七回移動するといえども、織物もできず  
睆彼牽牛、不以服箱 輝く牽牛は、箱車を引かず  

 こと座にはヴェガの下に3つ(実際には4つ)の星が逆三角をなして見えることから、跂と表現したようだ。七襄の意味は定かではないが、襄はすなわち駕、反という古い注釈があり、天空を移動する意味と思われる。報章は、杼を往復させて機を織ること、それによってできた織物を指す。この詩の前後には、ほかにも啓明・長庚(金星)、箕(南斗六星の柄以外の四星)、斗(北斗七星)など、天体に関する言及が多々あり、織女と牽牛の関係は定かではない。二十八宿という天の赤道上の星座の概念を描いた前433年頃の漆箱が出土しており、当時すでに天文学が盛んであったことは窺える。 

『史記』天官書には「牽牛為犠牲、其北河鼓、河鼓大星、上将、左右、左右将。婺女、其北織女、天女孫也」とある。『史記』は前漢七代皇帝の武帝時代に司馬遷(紀元前145–前86年頃)によって編纂された。この時代の牽牛は、牛を引く人物ではなく、荷や犂を引く牛のほうを、犠牲になる役畜を意味し、アルタイルではなく、少し南にあるやぎ座の六星、つまり牛宿を指していた。当時、アルタイルは河の太鼓と呼ばれていたが、河鼓は上将でもあり、アルタイルの両脇にある小さい二星は、左右に連れた将軍とされていた。織女は天女孫で、北極星である天帝の孫だ。ただし、この時代の北極星は地球の歳差運動により、現代のこぐま座α星ではなく、β星だった。紀元前11,500年頃はヴェガが北極星だった。  

 同じく武帝のころに編纂された『淮南子』の巻末付録に「烏鵲填河成橋而渡織女」(カラスとカササギが河をうずめて橋をつくって織女を渡す)と書かれていたと言われるので、鵲橋または烏鵲橋というアイデアは前漢にはすでにあったようだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』などにその引用が残っているのみである。  

 後漢の作と考えられている作者不詳の次の一首は、織女と牽牛の悲恋をテーマにしており、七夕に降るという催涙雨もこの詩に書かれている。これは南北朝の梁(502–557 年)の昭明太子が編纂した『文選』 の「古詩十九首」に収録されている。梁の武帝は学問を奨励し、文化が大いに繁栄し、この時代の書は飛鳥以降の日本にも大きな影響を与えた。  

迢迢牽牛星 皎皎河漢女 はるか彼方の牽牛星、清らかに光る天河の娘  
纖纖擢素手 札札弄機杼 細い素手を抜き、さっさと杼を通す  
終日不成章 泣涕零如雨 終日かけても織りあがらず、涙が雨のように降る  
河漢清且浅 相去復幾許 天河は清く浅い、またどれほど相い去るのか  
盈盈一水間 脈脈不得語 水の満ちた河に隔てられ、いつまでも語れない 

 『文選』には曹操の子で、魏の初代皇帝の曹丕(187–226年)の「燕歌行」という最古の七言詩も収録されている。「秋風蕭瑟天気涼。草木搖落露為霜。羣燕辭帰雁南翔」(秋風吹き渡り冷涼としてきた/草木は葉を落して露は霜となる/燕の群れは帰ってゆき、雁は南にやってくる)で始まるこの詩は、戦争から帰らない夫を待ちわびるもので、こうつづく。  

明月皎皎照我牀  明月は皎皎とわが床を照らし  
星漢西流夜未央  天河は西に流れ、夜は尽きない  
牽牛織女遥相望  牽牛と織女は遥かに相望む  
爾獨何辜限河梁  あなただけ何の罪で河に隔てられたままなのか  

 これらの詩では7月7日との結びつきは定かではないが、後漢の崔寔の『四民月令』に、「七月七日、曝経書、設酒脯時果、散香粉於筵上、祈請於河鼓織女。言此二星神當會、守夜者感懐私願。或云、見天漢中有奕奕正白氣、如地河之波、輝輝有光曜五色、以此為徵應。見者便拜乞願、三年乃得」(7月7日、書を虫干しし、酒や果物を備え、筵を敷き供物代の上に香粉をまき、河鼓と織女に祈る。この夜、二星が会合するのだと言い、二星に祈りを捧げた。そして天河に波涛のようなものが見え、さらに五色の輝きが見えたら、これを良い兆候と拝み、富を願い、長寿を願う)とある。    

 東晋(317–420年)になると、道教の著述家である葛洪が『西京・雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于開襟褸、倶以習之」(漢の宮女はつねに7月7日に〔未央宮内の〕開襟褸で、七本の針の穴に糸を通し、人びともこの風習に習う)と記しており、織女に手芸上達を願う乞巧奠(きっこうでん)の行事の最初の記述となっている。 梁の宗凛の『荊楚歳時記』 には「七月七日、爲牽牛織女、聚會之夜。是夕、人家婦女、結綵縷、穿七孔針、或以金銀鍮石爲針、陳几筵酒脯瓜果於庭中、以乞巧。有喜子網於瓜上、則以爲符應」と、さらに詳しく書かれている。鍮石とは真鍮のことで、七孔針は真鍮製の細い針を七本並べて、五色の糸を通して結ぶ。筵に供物台、酒と乾肉、瓜を庭に並べる。 瓜は七夕と関係の深いものの一つだが、いるか座の四星が『史記索隱』に「匏瓜、一名天雞。在河鼓東」と書かれていることにも関係がありそうだ。瓠瓜は瓢箪だが、ウリ科である。喜子はクモのことで、瓜の上に巣を張れば、器用になったことを意味した。

 七夕の行事は、乞巧というかたちで唐代になるとさらに盛んになり、以後、清代まで、月明かりのもとで針に糸を通す「月下穿針」や、水を張った容器に針を投げ入れて波紋で占う「丟巧針」など、女性の器用さから容姿、良縁などを願う行事に発展していった。  

 やはり梁の殷芸の『小説』に、織女と牽牛が渡河する、日本で「星合い」とも呼ばれる七夕の物語の大筋が書かれている。「天河之東有織女、天帝之子也。年々機杼労役、織成雲錦天衣。容貌不暇整。帝憐其独処、許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廃織紝、天帝怒、責令帰河東、但使一年一度相会」。天の川の東に織女がいる。天帝の娘で、毎年、機を織る労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇もない。天帝は独身であるのを憐れんで、河の西にいる牽牛郎に嫁ぐことを許す。嫁いだのち機織りをやめたため、天帝は怒って河の東に帰るよう命じ、一年に一度だけ会うことを許した、というものだ。これも原典は失われており、明代の『月令広義』に引用されている。梁の任昉が選者したとされる『述異記』にもほぼ同様の内容が書かれている。興味深いのは、空を見上げると、ヴェガは天の川の西に、アルタイルは東にあるのに、ここではちょうど逆になっている。この時代には描かれた星図が容易に手に入り、東西を取り違えたのだろうか。  

 同じころ、西晋の張華(232–300年)が著した『博物誌』のなかで、7月7日に漢の武帝と西王母が出会う話が登場している。「漢武帝好仙道、祭祀名山大澤、以求神仙之道。時西王母遣使乘白鹿告帝當來、乃供帳九華殿以待之。七月七日夜漏七刻、王母乘紫雲車而至、頭上戴七勝、青気鬱鬱如雲。有三青鳥、如烏大、使侍母旁。時設九微燈。帝東面西向、王母索七桃、大如彈丸、以五枚與帝、母食二枚。帝食桃輒以核著膝前、母曰『取此核將何為?』帝曰『此桃甘美、欲種之』母笑曰『此桃三千年一生實』」。西王母と武帝との出会いは、同時期に成立したと言われる『漢武帝内伝』や『漢武故事』にもある。  

 不老長寿と関連の深い西王母の信仰は、前漢末期に「西王母籌」という迷信となって流行し始めた。秦漢時代は蝗害が平均8.8年おきに発生し、後漢時代はとくに干ばつが頻繁に起きたことなどが、流行の背景にある。当初は『山海経』大荒西経などにあるように、「有人戴勝、虎歯有豹尾、穴処、名曰西王母」、頭に勝の髪飾りを戴き、虎の歯と豹の尾をもち、崑崙山の穴蔵に住む存在だった。しかし、頭に戴いた「勝」榺/千切り(ちきり)は織機の縦糸を巻きつける横木を意味しており、西王母は機織りと養蚕に深くかかわった女神だった。西王母は漢代には道教の女仙となり、不老長寿の秘薬も地日草や霊芝などの薬草から晋代には桃に変わっている。武帝に食べさせたのは、3000年に一度実のなる桃である。3月3日の誕生日には蟠桃会(とうばんえ)という聖誕祭が開かれるようになった。日本の雛祭りを桃の節句と呼ぶのはこれと関係がある。  

 西王母はやがてその名を王母娘娘と変え、容姿端麗な30歳代の女性に変貌した。天帝の娘だったはずの織女は、王母娘娘の子もしくは外孫女という設定になり、そうなるといろいろ不都合が生じてきた。西王母には東王父という蓬莱山の仙人のお相手がいたからだ。そこでいつしか玉皇大帝と名前が変わり、織女はこの大帝と王母娘娘の子になった。これ以降、七夕の物語は道士によって、もしくは民間伝承のなかで、さまざまに分化していった。牽牛という名称も、もともと牛を指していたためか、中国の民間伝承のなかでは牛郎に変わった。王母娘娘が七夕の話に登場するのは、織女を天上へ連れ帰ったあと、牛郎が近づけないように金のかんざしを抜いて天河を波立てる、もしくは河そのものを出現させる場面だ。西王母の頭飾りは「勝」から「華勝」、「金勝」、「七勝」と変わったあげくに、ついには金のかんざしになったのだ。  

 単純だった物語にもいろいろ尾ひれがつき、中国の民間伝承は盛りだくさんの内容になった。織女は『西遊記』(16世紀に成立とされる)にでてくる七仙女の末娘という設定になり、羽衣伝説と合体する。孫悟空が管理する桃園に、蟠桃会の準備で桃を摘みにくる仙女たちだ。七仙女は虹の七色の衣をそれぞれまとって河に水浴びにくる。 牛郎は両親を早くに亡くし、兄嫁にいじめられて、老牛と犂だけで家を追いだされた。ある日、牛郎は老牛にそそのかされて河に行って仙女の水浴現場に近づき、脱いであった羽衣の一枚を盗み、その衣の持ち主であった織女を妻にする。夫婦になった二人は一男一女に恵まれるが、織女は送り込まれた天神によって天廷に連れ去られる。牛郎は死んだ牛の皮をかぶり、子供たちを籠に入れて両天秤に担ぎ、瓢箪をもって天河まで行くが、逆巻く波に隔てられて渡れない。そこで親子三人が交替で河の水を瓢箪でかきだし始め、ついに玉皇大帝と王母娘娘も心を動かされ、一年に一度は会えるようにした、といった筋だ。 

 二人の子供は、アルタイルの両脇にある小さい星だとされた。瓢箪で水を汲みだす代わりに、瓜の水があふれて大河になる話もある。瓢箪畑だったいるか座の菱形の四星は、離ればなれの牛郎に織女が手紙をつけて投げた杼になった。牛郎のほうは、牛の軛、もしくは距骨に手紙をつけて織女に投げ、それがヴェガの下の四星だとされた。織女が自分で羽衣を取り返して天に帰る話では、この二つの小さい星の集まりは、夫婦喧嘩の末にたがいに投げ合ったものと説明される。ちなみに、距骨はアストラガリと呼ばれる占いに使われ、日本では「石なご」という聖徳太子も楽しんだという遊びになり、これがお手玉に発展した。  

 七夕の風習が日本に伝わったのは5世紀ごろで、機織り技術とともに入ってきた。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は646年の大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。真鍮の針も、最新技術としてこのころ伝播したかもしれない。七夕の物語は、遣隋使や遣唐使がもち帰った梁時代などの書物から伝わり、道教とは切り離されたせいか、当初の単純なストーリーが残った。日本には牛が非常に少なく、九州、近畿の限られた地域でのみ役畜として利用されていたため、牽牛のほうはいま一つ理解されないまま、職業不詳の彦星という名称に変わった。牛が引く犂(プラウ)は、中国では紀元前6世紀にすでに木製から鉄製に移行しており、漢代には牛と犂を使った耕作が農作業の象徴となっていたわけだが、日本では犂は明治の最新技術だった。そのせいか、彦星が鋤(スペード)を手にしたイラストが散見される。笹を飾る風習は江戸時代に始まり、五色の糸の代わりに五色の短冊(緑・紅・黄・白・黒)を飾るようになった。  

 旧暦7月7日の月は月齢6前後のほぼ上弦の月で、夕方に西の空に見え、22時には沈む。これを天の川を渡る船に見立てて、月が沈んだ夜中に輝きを増す天の川を楽しむこともあったようだが、これが中国由来の風習なのか、日本独自のものかは確認ができなかった。夏の大三角形をなすもう一つの星、はくちょう座のデネブは、中国語では天津四と呼ばれるが、なぜかあまり注目されることはなかったようだ。 七夕は日本では幼稚園児と商店街のための行事となり、中国では「中国情人節」としてバレンタイン・デーのようなものになっているらしいが、グレゴリオ暦7月の梅雨空ではなく、旧暦7月7日にこの晩くらいは夜空を見上げて天の川を探し、2500年の歳月に思い馳せる機会にしてはどうだろうか。

吊るしてみると、七夕の飾りというよりは消防の纏のよう。一瞬、中華鍋を型に張り子にして、底部や側面に丸みをもたせようかと思ったが、動画で張り子の作り方を見てあきらめ、お手軽な厚紙工作にしたので、遣唐使船か巨大な金貨チョコのようになった。

「烏鵲填河成橋而渡織女」
10本の吹き流しに、カササギがスパイラルで飛ぶ幻想的な情景にするつもりだったが、狭い床の上で孫と糊貼りに格闘したため、というより、元来無計画な性分ゆえ、あまり成功しなかった。

 後から思いついて色を塗った5色の糸


その昔、「七夕論考」をまとめた際に作成した関連の星図

幼稚園の園庭に大きな竹を何本も立てて飾ってくれたというので、七夕の夕方見に行ってきた。

2022年6月5日日曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 その2

 日曜日の夜、予定どおり歌舞伎座へでかけてきた。最後に劇場に行ったのはコロナ以前どころか、孫が生まれる前のことだから、本当に久々に幕が上がる前の、現実の世界から芝居のなかの世界へ入る瞬間を味わうことができた。  

 事前に脚本を読んでいたので、おお、この場面はこう演じるのか等々、一部始終が興味深かったし、一読しただけでは見落としていた重要な台詞も多々あり、やはり生で観て初めて芝居は理解できると思った。ほぼ出ずっぱりのお園役の玉三郎は、女形の発声で長時間喋りつづけ、それを1カ月繰り返すのだから相当な負担になるだろう。第4幕はとくに大熱演で、観終わったあと私まで無性に日本酒が飲みたくなってきた。共演の俳優たち、通辞藤吉を演じた中村福之助や岩亀楼の主人の鴈次郎なども、なかなかいい味をだしていた。  

 その一方で、台本にある言葉が、少なくとも私の世代以降には耳で聞いて理解しにくいものも多かったと思う。「本当は攘夷党の間諜(かんちょう)でさ」、「子の日(ねのひ)おいらんが、いや吉原じゃ子の日だったけど、横浜(はま)じゃ亀遊さんというんだった」などは、さっと聞いてわかるものではない。懐剣も、「かいけん」と読んでいたが、「ふところがたな」のほうが舞台ではわかりやすいのでは、などと思ったりもした。「おいらん、せいぜいお繁りなんし」という隠語らしい言葉は文字で読んでもわからなかったし、「私はでたらめと坊主の頭はゆったことのない女ですよ」という台詞などは、早口だったこともあって、観客からの笑いは少なかった。英語の台詞も多く、これも聞き取りにくさを増す原因となっていた。  

 この作品は、フェイクニュースだらけで何を信じればよいのかわからない昨今の情勢のように、一握りの真実の混じった嘘がどんどん広がる様を描いているので、観劇後、よくわからなかったと話している声がちらほら聞こえた。「確かにわかったのは、口は災いの元だということ」という感想を小耳に挟んだときは苦笑してしまった。世の中が揺れ動く時代に、日本人の最大の処世術は「見ざる聞かざる言わざる」で、だから庚申塔には三猿が彫られていたのではないかと、私は以前から勝手な推測を立てている。  

 有吉佐和子の戯曲にいくつかの誤解と偏見があったことも、舞台を観たことでよくわかった。とりわけ「唐人口」と呼ばれた外国人相手の遊女にたいする蔑視であり、こうした姿勢は幕末だけでなく、戦後の日本でも顕著に見られたことは言うまでもない。唐人口の遊女がことさらに醜く演出されていたのはやり過ぎだったように思う。  

 舞台では、障子を開けると港が見えるような造りになっていて、カモメの鳴き声とともに素敵な効果をだしていた。実際、新たに入船したのがアメリカ船だと話す台詞もあるのだが、港崎遊郭の場所はいまの横浜スタジアムの場所で、当時の港でも600メートルくらいは離れているので、たとえここが珍しく2階建であっても、はたして海がそれほどよく見えたかなどと、無粋なことを考えた。舞台装置を考案した人は、貞秀の「横浜異人商館の図」(1861年)を参考にしたのかもしれないが、これは英一番館、ジャーディン・マセソンではないだろうか。  

 岩亀楼の扇の間のセットは、壁面こそ扇が飾られていたが、岩亀楼として伝えられている竜宮城のような横浜絵からすると、和風過ぎるように思った。1幕を除いて、舞台はここを中心とするので、どんどん増えていく攘夷女郎の小道具の入れ替えなどは、その都度、緞帳を下ろさずに舞台照明だけ落として観客にその滑稽さが伝わるような演出でもよかったのではないだろうか。新作歌舞伎だからなのか、定式幕ではなく緞帳で、歌舞伎の回舞台のような手品が見られなかったのも、ちょっと残念だった。  

 なお、この芝居に名前だけ登場する大橋訥庵が渋沢栄一と何らかの関係があることだけは知っていたが、調べてみたことはなかった。この記事を書くためにちらりと検索したところ、坂下門外の変を計画した人物であり、かつ堀織部正利煕が謎の自刃を遂げたあと、堀の安藤信正にたいする諫言の書と称する偽書を捏造して世論形成をしたのだという。堀織部正の死をめぐっていろいろ調べたことがあったので、これは目から鱗の情報だった。時間のあるときに、この典拠となっている土井良三の本を読んでみよう。

 歌舞伎座の建て替えは2014年だったらしい。

開港当初の横浜にいて克明な日記を残したフランシス・ホールの書、JAPAN THROUGH AMERICAN EYESの表紙に使われていた貞秀の「横浜異人商館の図」
舞台から見えた窓の外の光景は、これにやや似ていた。

『横浜浮世絵』横田洋一編、有隣堂より

 同上
 舞台に使われた扇の間はこれにやや近い。

2022年6月2日木曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 この年齢になって初めて歌舞伎座に行くことにした。  

 締切りの厳しい仕事に追われているときに限って、「六月大歌舞伎」の第3部が、玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に演目変更になったとい新聞の短い紹介記事が目に留まり、そこからいくつかのネット上の記事を検索した結果、意を決したのだ。  

 正直に言えば、新聞記事を最初に読んだときは、玉三郎のような人がなぜこの作品にこれほど入れ込んでいるのか、私は理解しかねていた。ここ数年、この作品は明治座でも演じられて話題になっていた。だが、有吉佐和子の戯曲(1970年)のあらすじを読んだ限りでは、横浜の居留地や岩亀楼の実態とはかけ離れているように思われたのだ。  

 横浜の港崎遊廓は、外国人を受け入れるための「都市建設に伴う必須条件」として開港当初から設けられていた幕府公認の遊廓だった。『横浜市史稿』風俗編(1932年刊)は延々270ページも割いてその後、昭和まで場所を変えつつ存在しつづけた横浜の遊郭の歴史について述べている。幕府に遊廓の設置を勧めたのは、オランダのポルスブルック副領事と考えてまず間違いないだろう。 彼自身が「本町二丁目に居住する文吉なる者の娘お長」を見染め、ピートと言う息子をもうけた。

『横浜どんたく』下巻(有隣堂)に掲載された「珍事五カ国横浜はなし」(1862年)にはこんなエピソードがある。ポルスプルックが「百枚の洋銀ザラリと投出し、交渉に及びけるに、もとより開放主義のお長とて、蘭でも漢でも私や構やせぬと、早速応来の吉報は与えたるも、野暮天なる当時の役人等は、例の体面云々の考えより、公許の娼妓にあらざれば、外国人の妾たる能わず」。窮したお長は表向き岩亀楼の娼妓になり、鑑札料として月々1両2分ずつ同楼に納め、外妾の元祖となったのだという。 

 同書には1862年当時の居留地の外国人リストもあり、その大多数には小使いや別当とともに、「娘」として遊女の名前が記されている。和蘭陀のコンシユル、ボスボクスのところには確かに「娘〔ラシヤメン〕 てう」とあるし、下段の英吉利のコンシユル、ゲビテンワイス(ヴァイス大尉)には「娘〔ラシヤメン〕 たか」とある。この物語の舞台となる岩亀楼は港崎遊廓の代名詞ともなった楼で、「二階楼を異人館と和人館に区別し」た造りで、幕末のあいだはこの一軒だけが「異人揚屋」だったと、『横浜市史稿』は書く。 

 改めて読み返してみると、『横浜市史稿』には「岩亀楼遊女喜遊の正体」と題した、今流に言えばファクトチェック、オシントとでも言うべき章まであった。遊廓が大きな位置を占めてきた横浜の歴史を編纂するうえで、この攘夷女郎の逸話はとうてい無視できなかったのだろう。明治32年に書かれた決定版的な『温故見聞彙纂(いさん)』から、慶応年間の刊行かと書かれた『近世義人伝』まで諸説を集めて食い違いを検討したものだ。それによると、自死した遊女の名前も、その父の名前も、身請けを申しでた外国人の名前も、憤死した年月も、年齢にも資料によって食い違いがあった。市史の執筆者は喜遊(有吉作品では亀遊)と呼ばれることの多かった女性の墓所も探したようだが、発見はできなかったという。 

 有吉佐和子は戯曲を書いた際に、これらの資料を読み、そこから瓦版でまことしやかに書き立てられた攘夷女郎の話に合わせて、世間が求める方向へ話がどんどん飛躍していくさまを、そのまま戯曲にするという、抜群のアイデアを思いついたに違いない。ネット上で見た2008年の映画版の予告編の最後に、玉三郎の演じる語り手の年増芸者お園が、「みんな嘘さ」と、絞りだすように言う台詞を見て、ようやく有吉佐和子の意図も、玉三郎がこの作品に強い思い入れがある理由も理解したのだった。「嘘っぱちだよ。おいらんは、喜勇さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまったのさ」と台詞はつづく。

 よく読めば、花魁の自死がテーマにもかかわらず、この作品は「喜劇」とされていることがわかるのだが、私同様に勘違いしている人はかなりいるのではないだろうか。なにしろ有吉佐和子の曾祖父、有吉熊次郎は、長州の御盾組の1人で、池田屋事件の生き証人となり、禁門の変で久坂玄瑞らと鷹司邸で自刃したという、きわめつけの攘夷派だったからだ。実際、「あの前後は高杉晋作が品川のイギリス公使館を焼打ちしたり、胸のすくような事が続きましたねえ」という、大橋訥庵の「思誠塾」の門人、多賀谷の台詞まである。有吉佐和子の曾祖父はまさしくその下手人の1人だった。享年23歳なので、本当に遺児がいたのか、養子縁組していたのかはわからないが、そんな志士の子孫が、攘夷から一気に西洋追従に変わる時代に翻弄されつつある人びとを、笑いのなかで見事に描き切っていたのだ。 

 有吉佐和子の意図がわかれば、「岩亀楼遊女喜遊」が実在の人物かどうかなど、探るだけ野暮な気がしないでもない。それでも、横浜の歴史に首を突っ込み、否応なしに遊郭の歴史も読んできた身でもあるので、少しだけ私なりの推理をしてみた。一次史料と呼べるものがない場合はとくに、「実話」は時代を経るごとに尾鰭が付く。よって、情報は少ないが、戯曲にも登場する江戸の新吉原の桜木という花魁が最初に「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の歌と関連づけられた安政4、5年ごろがヒントになりそうだ。となると、候補はハリスの通訳で、暗殺されたヒュースケンと彼の江戸での日本人妻とされる、おつるあたりだろうか。

 作品に登場する外国人はアメリカ人イルウスという設定だ。大正期までのいくつかの資料が「伊留宇須」、イルミスンとしていたが、アボットだとするものもあった。イルウスならば、ヒュースケンの遺体写真の撮影者で、下岡蓮杖に写真機材を譲ったジョン・ウィルソンの名前が一部の日本人に知られていた。 

 ヒュースケンの寡婦と遺児の写真だとよく言われる古写真は、実際にはポルスブルックの妻子、つまりお長とピートだと、古写真研究者の高橋信一氏が突き止めておられた。オランダからの移民だったヒュースケンとポルスブルックは親しく、遺族の面倒を見ていたとどこかで読んだような記憶がある。ポルスブルックとお長の関係については、いくつかの証言が横浜市の史料に残っているので、この江戸時代のフェイクニュースは、このあたりの何人かの有名な外国人と日本女性の逸話をもとに、故意や勘違いから、口伝えに膨れあがったのだろうと思う。 

 本来ならば、舞台を見てからこの記事を公開すべきなのだが、今日は横浜開港記念日だし、もう1カ月近くブログを放置してしまったので、早めにアップすることにする。この先、さらに多忙になりそうなので、観劇の感想は少しあとから追加するかもしれない。高校か大学のころ、一度だけ玉三郎の歌舞伎を国立劇場に観に行ったことがあるが、それ以来のことになる。今回の公演は27日まで。

『甦る幕末』(朝日新聞社)にヒュースケンの日本人妻というキャプションで掲載されていた、ポルスブルックの妻たかと思われる女性。喜遊のモデルの1人か。

「露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、喜遊の辞世の句として捏造されたものだった。秋になったら撮影しようと思っていたら、昨日、幼稚園からの帰りに大雨のなか咲いているのを発見。今朝カメラをもって撮ってきた。花期は8月〜9月らしい。2022年7月16日撮影