2022年4月18日月曜日

「シーボルトの帰り桜」

 昨春は、われながら呆れるほど桜三昧だったのに、今年の春は近所をおざなりに見て回る程度で終わってしまった。いろいろ忙しかったこともあるが、呑気に春を楽しむ気分になれなかったことも大きい。  

 そんな折に、たまたま県立長崎シーボルト大学のキャンパス内に植えられている「シーボルトの帰り桜」の写真をフェイスブックで見て、そこに〈ホクサイ〉と書かれていることに気づいた。NPOながさき千本桜によって平成15(2003)年に植樹されたものらしい。〈ホクサイ〉と言えば、コリングウッド・“チェリー”・イングラムが名づけたことで知られる品種なので、なぜ半世紀も時代をさかのぼるシーボルトの「帰り桜」とされるのかが気になった。

  ざっとネット検索したところ、ウィキペディアの「荒川堤」の項目に、「1866年にシーボルトが日本から持ち出した以後に日本では絶えていた〈ホクサイ〉は、日本のサクラを熱心に収集していたイギリスの園芸家のコリングウッド・イングラムにより保存されており、その後日本に里帰りした」との一文があり、その典拠として森林総研の勝木俊雄氏の『桜』(岩波新書、2015年)が挙げられていた。「シーボルトの帰り桜」は、大学構内だけでなく長崎の中島川沿いの眼鏡橋付近にも植えられているようだし、1901年創業というイギリス大手のフランク・P・マシューズをはじめとする苗木会社のウェブサイトにも、同様の説明を付したPrunus ‘Hokusai’のページがあった。  

 勝木氏の『桜の科学』は昨春、読んでいたが、『桜』は未読だったので、図書館から借りてみると、「なかには一八六六年にシーボルトが日本から持ち出したと考えられる〈ホクサイ〉という名のサクラなど、日本では見ることがない名称のものもあった」とだけ書かれていた。そう断定しているわけではない。フランツ・シーボルトは1866年10月に没しており、再来日したのは1859年4月から1862年5月までなので、この件を深く調べて書いたわけではなさそうだった。そもそも、この本が刊行される以前に「シーボルトの帰り桜」は植樹されているので、これとは別の根拠があったのだろう。  

 阿部菜穂子氏の『チェリー・イングラム』(岩波書店)も再読してみると、イングラムが〈ホクサイ〉と名づけた桜は、1919年に彼が購入したザ・グレンジの敷地内にもとからあった樹齢25年ほどと思われる大木がその始まりだった。当時、日本の桜の科学的分類の権威だった三好学に品種名を問い合わせたところ、「この桜の品種名は不明である」との回答を得ていた。「それなら、私が命名するよりほかにない。この桜を、世界的に有名な日本の画家、葛飾北斎にちなんで、〈ホクサイ〉と名づける」と、イングラムは宣言したと同書は書く。 

 ザ・グレンジはもともと1891年にクランブルック伯爵が娘のために建てたもので、その後、20世紀になって十数年間、『デイリーミラー』紙などの創業者の1人、ロザミア子爵の手に渡っていた。樹齢25年であれば、クランブルック伯爵が植えた可能性が高そうだが、それでもシーボルトの没後から30年は経ている。 海外に植木を売ることを目的として1890年に創業され、イングラムも利用した横浜植木商会や、1872年にマサチューセッツ州に創設され、東アジアの樹木収集に熱心だったアーノルド樹木園、あるいは「独立した日本特設コーナーが設けられ、菊や盆栽などともに、桜が植樹された」という1900年のパリ万博などから、ザ・グレンジのこの最初の所有者が購入した可能性は否定できないし、それらの入手方法のほうがより自然ではなかろうか。 

〈ホクサイ〉と名づけられたこの品種はピンクの八重で、素人目にはこれといった特徴のない品種に見える。昨年、足立区都市農業公園で私も若木を見ていたが、印象には残らなかった。実際、〈福禄寿〉との唯一の目立つ違いは萼片(がくへん)だとするウィーベ・カウテルトの研究書(Kuitert Wybe, Japanese Flowering Cherries, 1999)もあるし、2014年、15年に訪英してイギリスの桜のDNAを研究したという勝木氏自身は、2015年に東大農学部で開かれた森林遺伝育種学会大会で、「形態観察の結果」としてはいるが、「英国での ‘Shimidsu’は‘松月’、‘Hokusai’は ‘渦桜’と考えられた」と報告している。 

〈渦桜〉は大阪造幣局の桜並木の看板では、「東京荒川堤に元々あった桜とされている。花名は、しわのある花弁が渦を巻くように、ややらせん形に並ぶことによる。淡紅色の八重咲で、花弁数は30枚程である」となっている。長崎の眼鏡橋付近の〈ホクサイ〉には、「薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます」と書かれているので、はたして同じ品種と言えるのか私にはわからない。私には〈松月〉と〈福禄寿〉もそっくりに見えるし、八重桜はいずれも穂木を人工的に別々の台木の上に接木して増やすので、風土の異なる地で何十年、何百年も経るうちに品種が変わってしまうのではないだろうか。  

 片手間にほんの数時間、ネット検索した限りの憶測でしかないが、〈ホクサイ〉がシーボルトの桜だと言われ始めたのは、長崎時代の1820年代に彼の助手を務めた川原慶賀が描いた「サクラ」の絵が〈ホクサイ〉に似ているからではないか。この絵には登與輔と落款があり、Cerasus Pseudo-Cerasus var. flor. plenio roseisと書かれている。シーボルトの死後、日本の絵師たちが描いた原画は遺言により未亡人の手を経てロシア政府に売却され、現在はサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所の所蔵となっている。1041点に上る植物原図を1993年に丸善が『シーボルト旧蔵日本植物図譜コレクション』という30万円!の3冊本を刊行し、それを機に各地で展覧会が催された。  

 記憶を掘り起こせば、娘が高校時代、2002年の夏休みの宿題に「出島の三学者」と題して、ケンペル、ツンベリー、シーボルトを調べた際に、佐倉市立美術館で開催されていた「シーボルト・コレクション日本植物図譜展」に私も同行していた。「サクラ」の絵も見たのかもしれないが、記憶にはない。『シーボルト日本植物誌』は、ちくま学芸文庫版だがもっていた。だが、西洋の博物誌然としたこの本の挿絵と、川原慶賀などの日本の絵師が描いた膨大な数の絵がどう関係するのか、恥ずかしながら、これまで確かめたことがなかった。実際には、『日本植物誌』の挿絵はミンジンガーなどのヨーロッパの植物画家が、日本人絵師たちの作品を下絵にして描き直していたのだ!  

『日本植物誌』の解説によると、シーボルト事件で1829年10月に国外追放された際にも、彼は2000株近い日本植物の移出に成功し、ジャワ島のボイテンゾルフの植物園で馴化されていたようだが、オランダに戻ったのは翌年7月であり、コレクションの一部は彼の手には届かずじまいだったという。12歳の息子アレクサンダーを伴って1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日した際には、しばらく幕府の外交顧問にもなったが、失意のうちに帰国したと記憶している。ウィキペディアの彼の項目には、「2度目の訪日で集めた蒐集品や植物の種苗はミュンヘンで保管され、一部は長男アレキサンダーがイギリスに寄贈している」という心をそそる一文があるが、英語版には、アレクサンダーが遺品の多くを大英博物館に寄贈したとしか書かれておらず、「種苗」については定かではない。 

『チェリー・イングラム』によると、接木するための穂木は、樹が休眠中の冬のあいだに伐採する必要があり、穂木の切り口に湿った苔をつけたり、穂木をジャガイモに刺したりと工夫を重ねることでようやくヨーロッパまで無事に輸送できるようになったという。シーボルトが1862年5月に離日していて穂木を確保する時期でないことや、帰国後もオランダ、ロシア、フランスなどの政府に勤め先を求めたものの、成功していないことを考えると、そんな状況下で彼が日本からもち帰った桜の穂木を接木して無事に育てられたのか、と疑問をいだかざるをえない。それがやがてイギリスにまで渡り、大木となって花を咲かせていたなら、画期的なことなのだが、どこか飛躍している。  

 ちなみに、品種のラテン語名にシーボルトの名前がつく〈高砂〉というピンクの八重桜がある。これは1860–62年に日本に滞在していたプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンが、帰国後の1864年に輸入したもので、どういう経緯でシーボルトの名前がついたのかは、カウテルトの書にも、それを引用した阿部氏の本にも書かれていなかった。  

 余談ながら、12歳で来日した息子のアレクサンダーは、その後15歳で在日イギリス公使館に特別通訳生として雇用された。上田藩の赤松小三郎は、イギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンから「騎兵術を伝習し、同時に英文を学」んだ1864年末に、横浜の「アプリン宅に行き、アレキサンドルの通訳で話す」と日記に残している。アレクサンダーは1867年に休暇で帰国し、その際に徳川昭武や渋沢栄一らのパリ万博使節団に随行した。

 ワーグマンの『ジャパン・パンチ』1865年10月号には、インフルエンザのパークス公使の手当をするウィリス医師のもとへ、粥をもったミットフォードと、頰被りをして、燃えさしを入れてベッドを温める器具を担ぐスパーズ、つまりアプリン、それにアレクサンダーと思われる若者が見舞いにくる滑稽な絵がある。吹き出しの文字の判読を試みたが、意味不明の英語だった。通訳になった当初、アレクサンダーは英語が苦手だったらしいので、それをからかったものだろう。地球の裏側のような異国の地で、10代で独り立ちしたこの若者は、父の死に目には会えなかったようだ。  

 結局のところ、私が当初いだいた疑念が、かなり強まった程度で簡易調査はおしまいにせざるをえない。「シーボルトの帰り桜」と銘打って植樹した人たちが何を根拠としたのか、ご存じの方がいらしたらご教示願いたい。ピンクのふわふわとした八重桜の来歴を調べながら、そうか川原慶賀らの原画はロシアにあるのか、8つの本型の箱に収められていたこれらの植物画が長らく一般に知られていなかったのはソ連時代だったからなのか、などと現実に引き戻されるのが悲しい。そう言えば、アプリンも来日前にクリミア戦争とアロー戦争に従軍していた。イングラムの義理の娘が香港で日本軍の捕虜として3年以上も収容所生活を送り、日本の桜を生涯にわたって受け入れなかったというエピソードを思いだす。

足立区都市農業公園で見た〈ホクサイ〉。手前はおそらく〈鬱金〉。2021年4月撮影

川原慶賀による「サクラ」、『シーボルト旧蔵日本植物図譜展』(1995年)より
この図録に掲載されている桜はほかに、同じく川原慶賀によるイトザクラ(枝垂れ桜)と、再来日時に雇われた清水東谷によるエドヒガンとヤマザクラがある。

都市農業公園で見た〈高砂〉。2021年4月撮影

娘が高校時代にまとめた「出島の三学者」と今回の参考文献

『復刻版 ジャパン・パンチ』第1巻(雄松堂)より