2012年6月29日金曜日

仏像の変遷

 先月、刊行された『100のモノが語る世界の歴史』の第2巻に、西暦100~300年ごろにつくられたガンダーラの仏坐像の章がある。人間の姿で表わされたごく初期の仏陀像というこの石像は、日本人が見慣れた螺髪ではなく、冠をかぶっているわけでもなく、軽いウェーブのかかった長髪だ。釈迦の生地は現在のネパールだという。パキスタンのガンダーラとは離れているので、実際、こんな姿だったのかどうかはわからないが、いかにもインド亜大陸北部の人のように見える。「髪はおだんごのようなスタイルにまとめられているが、これは実際には仏陀の知恵と悟りの境地を表わすシンボルである」という著者の巧妙な解説を読み、私が正反対の意味に解釈したのは言うまでもない。信仰や民族に関する微妙な問題を、それとなくユーモラスに表現する著者の心配りが、拙訳でどのくらい伝わっただろうか。この巻には780~840年ごろ製作されたボロブドゥールの仏像頭部の章もある。こちらは見事な螺髪だ。いったい仏陀のヘアスタイルはいつから変わったのか。  

 ガンダーラの仏像の章にはもう一つ、興味深いことが書かれていた。この像の「手のポーズは、ダルマの輪を回す印相、ダルマチャクラと呼ばれています。(中略)仏陀の指は輪のスポークの代わりとなっており、彼は信者たちにむけて『法輪を動かし始めている』」。仏教のシンボルである法輪は、いまでは舵輪のように描かれるが、もとはスポーク付の車輪そのものを表わしていたのではないか。スポーク付の車輪は紀元前二千年紀に中央アジアのステップ地帯で発明され、乗り物となって各地へ急速に伝播した。釈迦の時代のインドにも普及していただろうが、それでも当時の最新技術だったに違いない。だからこそ、シンボルマークに選ばれたのではないのか。  

 そんな疑問が頭から離れず、岩宮武二の特大豪華写真集『アジアの仏像』を図書館から借り、あげくのはてにアマゾンで最安値の(私にとってはそれでも恐ろしく高額の)中古品を手に入れ、暇を見つけてはページをめくって仏像の変遷を調べた。仏像のヘアスタイルは、3世紀ごろに南インドのアマラーヴァティーあたりから変わった可能性が高く、衣装も薄着になっていったようだ。法輪は調べた限りでは、紀元前3世紀のアショーカ王の石柱が最も古い。おもしろいことに、東南アジアの仏像には法輪が刻まれているものが多いが、アフガニスタンやチベットにはほとんど見られない。考えてみれば、山がちのこうした地域では車輪は無用の長物だ。車付きの乗り物が威力を発揮するには、平坦な土地に道路を建設できて、それを引く役畜がいなければならない。北伝仏教が伝播した中国、朝鮮などの古い仏像にも法輪はまずない。昨夏の空海展の土産売り場で、金剛杵やマニ車をモチーフにしたものはたくさんあったし、古代インドの武器である円盤状のチャクラムはあっても、法輪が見つからなかったのはそのためかもしれない。一方、東南アジアの歴史に転輪聖王(チャクラ・ヴァルティン)という言葉が頻繁にでてくるのは、南伝仏教だからだろう。江戸時代に盛んにつくられた庚申塔には、なぜか法輪がよく刻まれている。 

 やはり空海展で見た、東寺所蔵の重要文化財「蓮華虚空蔵菩薩坐像」という9世紀唐代の、孔雀に乗った不思議な菩薩像も、この本にあるクマーラ・グプタ一世の金貨(415~450 年)を見て納得した。クマーラというヒンドゥーの神さまが孔雀にまたがっていたのだ。インドの神さまなら、孔雀でもおかしくはない。ひょっとすると、この金貨を見て唐の仏師は孔雀を菩薩の乗り物に選んだのかもしれない。謎が解けていくのはじつにおもしろい。

 大英博物館で見た所蔵品

ガンダーラの仏陀像(左)、 
ボロブドゥールの仏像頭部(右)

クマーラグプタ一世の金貨(左)、 
東寺の菩薩像(右)

今回の消しゴム判子製ブックカバーは デイヴィッドの花瓶から

『100のモノが語る世界の歴史2:帝国の興亡』ニール・マクレガー著(筑摩選書)