2021年9月24日金曜日

二夫さん追記

 アルゼンチンに渡った佐賀の親戚について調べていた際に、図書館にリクエストしていた『アルゼンチン日本人移民史』戦前編と戦後編(社団法人 在亜日系団体連合会、アルゼンチン日本人移民史編纂委員会刊、2002、2006年)が届いた。分厚い2巻ものなので、該当しそうな箇所だけを拾い読みした程度だが、「ミシオネスの日本人」という一節に私の大叔父の二夫さんと思われる人物に関する言及があった。  

 ミシオネス州「サン・イグナシオにおける日本人の発展をもたらしたのは山口喜代志である。山口は1910年に旅順丸でブラジルにわたり、1911年にアルゼンチンにやってきた。[……]山口は1925年にサン・イグナシオに入植し、養蚕用の桑を植え、ジェルバの栽培もはじめた。山口喜代志も日本人の入植者に協力を惜しまなかった。1926年ごろからサン・イグナシオに入植したのは以下の人々である」。このあとに13人の名前が列記され、そのうちの1人が「東郷不二夫」となっていた。次のページには1931年のアルゼンチン日本公使館の報告リストがあり、そこには入植年1927年の「東郷不二夫」、本人を含む家族数3、所有面積40ha、マテ樹木数8,000本と掲載されている。 

「原典で姓名の誤りとおもわれる部分は修正した」とあるので、不二夫は二夫だった可能性が高い。前述したように、二夫さんは1930年に入籍したが、妻はまだ日本に残っていた。長子は1934年生まれなので、入籍と同時に、同行した義弟の移民申請もだされ、それが公使館の記録となって「3人」世帯と認識されたのだろうか。  

 サン・イグナシオに最初に入植した山口喜代志は佐賀県出身なので、彼を頼ってのことだったかもしれない。公使館の報告書には、「日本人全員が永住の決意をいだき、異口同音に子孫百年の大計をたてると称して焦らず騒がず着実にその業務に従事していた。そして互いに助け合い、自家製の料理を持参しあっては農業の改善について話し合い、一獲千金を夢みる者はまったくいなかった」と書かれていたという。1931年時点で土地代を完納している人のなかに、二夫さんは含まれていないが、所有面積はかなり広いほうだ。  

 18世紀末にフンボルトとともにアルゼンチンと探検したエメ・ボンプランが、のちに入植してジェルバ(イェルバ)・マテという低木を栽培し、アルゼンチン現地民の飲料だったマテ茶を一躍有名にしたのは、サン・イグナシオのすぐ近くのサンタ・アナだった。私の娘はこの話を子供用の科学絵本で読んで以来、マテ茶を飲みつづけているのだが、二夫さんがアルゼンチンで生計を立てていたのが、このマテ茶だったようだ! 「マテ茶の原料となるジェルバ・マテは、〈オーロ・ベルデ(緑の金)〉と呼ばれた。[……]そしてこのジェルバ・マテを供給するのが、アルゼンチンの北部、パラグアイ、ブラジルとの国境がいりくむミシオネスである」と、移民史の本には書かれている。トラクターなどない時代、40ヘクタールもの土地を耕して、二夫さんが1人で8000本もの低木を植えたのか、それともその予定だったのか、いずれにせよたいへんな作業だったに違いない。  

 上下2巻のこの本に、二夫さんに関する情報はほかに見当たらなかったが、1939年5月9日付の『亜爾然丁時報』に掲載された〈サン・イグナシオ通信〉には、この地域の日本人会の名称を「アルトパナラ日本人会」と改称し、任期2年で幹事を5人選んだなかに二夫さんの名前があった。一緒に幹事を務めた土居祐緑、寺本芳雄の2氏の名前は1931年のリストにもあり、入植当初からの仲間だったようだ。1942年3月7日付の同紙には、「故三浦哲蔵氏葬儀及墓碑建造費寄付者芳名」のなかに、「拾五弗宛[ずつ]」を寄付したとして二夫さんの名前があった。移民して十数年が経ち、少し経済的に余裕がでてきたのだろうか。  

 戦前編には、初期の移民やその背景が書かれている。日本からの定着移民第1号は、1886年に入国したと言われる三浦の三崎出身の牧野金蔵だが、1989年に日本とアルゼンチンが正式に外交関係を結んだ2年後に最初に移民した2人のうち1人は佐賀県東択浦郡湊村(現在の唐津市湊)出身の16歳の若者、榛葉贇雄、もう1人は鳥海忠次郎という13歳の少年だった! 榛葉は少なくともかなり成功して、スペイン語の著作も数点残したようだ。その後、1904年に東京外語大出身の丸井三次郎と古川大斧が農商務省の海外実業練習生としてアルゼンチンに渡った。二夫さんがアルゼンチンを選んだ理由には、こうしたいくつかの前例があったからに違いない。1918年ごろのリストを見る限り、佐賀出身者はときおり見られる程度で、多くは沖縄、鹿児島、熊本、福島などからきていた。  

 二夫さんが移民を決意した理由が何だったかはわからないが、この時代に佐賀から東京の大学に進学していたとすれば、経済的に困窮した末ではなかっただろう。兄の嘉八は佐賀師範学校出なので、次男にはるかに教育費をかけたことになる。ただし、彼らの父親は炭鉱に手をだして痛い目に遭った挙句に、32歳(数えで34)で他界しているので、妹を含めた3人の子供たちは母親によって育てられている。アルゼンチンから私のもとに届いたメールには、この曾祖父母の名前が記されていて驚いたが、考えてみればそれが二夫さんの戸籍にあった唯一の日本の記録なのだろう。ちなみに曾祖父はなぜか戸籍では徳市なのに、墓標には徳一と記されている。曾祖母はスエというが、Sueを手書きした文字が判読しづらかったのかメールにはJueと書かれていた。前の記事に掲載した家族写真の前列のおばあさんがスエさんと思われる。  

 それにしても、南米大陸の大西洋側の南端にあるアルゼンチンは、日本からはおよそ行きづらい国だ。移民の多くはブラジルやペルーなどにいったん渡ったあと、アルゼンチンへ移動したという。インド洋周りで行く人もいたようだが、太平洋航路で移住した人びとは、1910年にアンデス山脈を抜ける鉄道トンネルが開通すると、チリのバルパライソから列車でアルゼンチンに入国したそうだ。ただし、冬季に積雪で汽車が突如、不通になり、雪のなかを徒歩でアンデス越えした人びともいた。  

 戦後編にもいろいろ興味深いことが書かれていた。戦後の日本人の海外移住は1947 年にアルゼンチンから始まったという。「戦後の日本人花嫁たち」という節には、「定住後に彼らが伴侶として求めたのが日本の女性だった。なんといっても価値観と生活勘を共有できる生活環境が整ったとき、多くの日本人男性は日本にいる親や親戚や知人に伴侶探しを依頼した。中には新聞広告で花嫁を募集した者もいた」と書かれていた。「いわゆる〈写真花嫁〉とか〈移住花嫁〉と呼ばれる女性の移住は、日本人移住者の間だけで行われたものではなく、アルゼンチンに大量移住したイタリア人をはじめ、スペイン人やポルトガル人などの社会でも実行されていた」ともある。 

「二世たちの歩み」という節には、私や弟がにわかにアルゼンチンの親戚探しを始めるきっかけとなった軍政時代のことも書かれていた。「軍事政権の前後に3万人の行方不明者が記録されていた。そのうち15名は日系人だった」。「ほとんどが戦前移住者の子供」だったという。こうした時代を親戚たちがどうくぐり抜けたのか、いつか話を聞けたらと思う。

『アルゼンチン日本人移民史』戦前編と戦後編(社団法人 在亜日系団体連合会、アルゼンチン日本人移民史編纂委員会刊、2002、2006年)

ミシオネス州のジェルバ・マテの大農園(画像は、WikipediaのYerba mateの項より拝借)
『亜爾然丁時報』1939年5月9日付(国際日本文化研究センターのサイトより拝借)

2021年9月20日月曜日

二夫さん

 私には会ったことがなく、その存在すらつい数年前まで知らなかった大叔父がいる。亡父と疎遠であったため、そもそも父方の親戚はあまりよく知らないのだが、この大叔父(二夫、つぎお)は1928年ごろにアルゼンチンに移民したきりとなっている。弟の話では、東京外国語学校(外大の前身)の西語学科をでて外務省に入り、その後、一念発起して海を越えたようだ。  

 たまたま弟と私は同じ時期にナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を読んでいて、話は自然とこの二夫さん一家のことになった。弟は子供のころ、二夫さんの妻リンさんと末娘マリアが一時帰国した際に会ったことがあり、そのときの写真ももっていたが、詳しい事情は知らなかった。  

 アルゼンチンのミシオネス州にいたこの大叔父一家を頼って、父の姉も十数年間、地球の裏側にある彼の地に移住していたことがあったので、アルゼンチン生まれの子供たち、つまり私のいとこRaulたちなら詳しいだろうと久々に連絡してみた。だがあいにく、親世代が他界したあと、ミシオネスの一家とは言葉の問題もあって音信不通になってしまったとのことだった。  

 幸い、いとこの家には二夫さんが1969年1月に書いたという長い手紙が残されていた。明治生まれで、長年、日本を離れていた二夫さんの手書き文字は、古文書よろしく変体仮名が多く使われ、読むのにかなり苦労したものの、FB友たちの助けを借りて9割以上は判読することができた。そこには、アルゼンチンの日系人たちや家族の近況が事細かに綴られていた。  

 私の実家のアルバムには、アルゼンチンに渡った伯母夫婦の後ろに、日本人らしい若い男女が立つ写真が残されていた。いとこがもっている写真と見比べると、後ろの2人は二夫さん夫婦の上の子供たちである可能性が高い。だが、長女に関しては手紙のなかで言及がないので、ひょっとすると早世したのかもしれない。  

 いとこのラウルが子供のころ一緒に釣りに行ったという二夫さん次男のカルロスについては、「武州政府の水産局に席をおいて大学の方の研究室はムセオ〔博物館〕にあって」養殖に関連した研究をしていると手紙には書かれていた。カルロスに関しては、ラウルがネット上から彼の功績をたたえる小冊子(Ictiólogos de la Argentina, Carlos Togo, 2011)を見つけてくれた。そこには一目で親戚と思える顔立ちのおじさんの写真数点ともに、彼がラ・プラタ川流域で発見したらしいカラシン科淡水魚の新種、Hyphessobrycon togoiの写真が掲載されていた。ところが、書かれているスペイン語を自動翻訳してみると、家庭の事情で魚類の研究からは離れてしまい、そのためかつての同僚たちが2006年に彼の名を学名に付けて功績を顕彰したというもののようだった。

 二夫さん家族に関しては、祖父の除籍謄本にかなり詳しく記録が残っていたが、下のほうの子供たちは記録がない。ホセという名前だけが伝わっていた男の子は、どうやら考古学を専攻し、「昨年の休みは教授の供でサルタに古墳発掘に行って帰宅しなかったが、此度は年末に帰宅して一週間ばかり居て、又、休中はサルタ州」であることなどが、手紙から判明した。このホセに違いないと思われるDr. José Togoという考古学者が、昨年、日本の外務大臣表彰を受賞していたこともわかり、研究論文に書かれていたメールアドレスに連絡してみたのだが、いまのところまだ返答がない。  

 弟が子供のころに会ったというマリアについて、二夫さんは「これは宅での一番の才女だ。親が云ふのも変だけれ共(ども)、これは毛唐の中に押し出しても一歩もヒケをとらない。それに人気者で凡ての人に可愛がられる人徳もある」と一押しだった。マリアは法科で学んでいる。末娘が育つころには、現地社会にすっかり溶け込み、アルゼンチン人として互角に勝負できるようになったのだろう。  

 佐賀県多久市の父の実家で撮影された古い家族写真がある。初めてこの写真を見せてもらったときは、まるでフィリピンの一家のようで、さすが南国だと驚いた記憶がある。なかでもとくに目立つのが前列中央に、大正ロマン風の着物を着て座るつぶらな目の若い女性で、この人が二夫さんの妻リンさんではないかと気づいたのは何年か前のことだった。  

 この写真は子供たちの年齢から1933年ごろの撮影と推察されるのだが、二夫さんとリンさんの婚姻届は1930年にだされている。二夫さんが1969年の手紙のなかで、「アルゼンチンに来て此年で四壱年になる」と書いているため、彼が出国したのは1928年と逆算したのだが、リンさんと結婚するために一時帰国したのか、リンさんだけしばらく日本に残っていたのか等々、あれこれ頭を悩ませた。  

 しかし、いとこのラウルや弟と何度もメールをやりとりするなかで、驚くべき事実が見えてきた。二夫さんは1928年に日本を離れてからおそらく一度も帰国せず、数年後に、アルゼンチンから故郷出身のお嫁さんを探したのだろう。リンさんは、おそらく1933年ごろ、この写真が撮影されたのちにアルゼンチンへ渡ったに違いない。これはリンさんと、付き添いで渡った彼女の弟タケシ(のちにラウルらの父親となる)の壮行会の写真だったのだ。  

 手紙の最後に二夫さんはこう書く。「だが負けおしみで強がりでなくハッキリ言へる事は、俺にわ後悔はない。若き日の発願の眞念を一貫して遂行して来た現実をツクヅク眺めても一寸もミヂメな感慨わ起こらない[……]俺わ後幾年生があるか知れぬが一粒の麦となって此世を去って祖国日本の現状も豊かさの中の幸と不幸を見る。[……]現在の俺の只一つの希望わ、君達一家を中ツギにして故国日本にある目に見ぬ血縁の人々の[カ]俺達一家との、形にわ現われずとも、目にわ見へなくとも、強い一本の綱で結ばれて居る事と信ぢておる。又信ぢなければいけないと思ふ」  

 二夫さんやリンさんが存命のうちは叶わなかったが、いまはインターネットで地球の裏側も瞬時につながる時代だ。一粒の麦が見事に実を結んだような、アルゼンチンの親戚たちと、1世紀近い歳月を経て再びつながることができたらと願っている。そうしたらいつか、私もアルゼンチンまで行って、どことなく似た顔立ちながらスペイン語をしゃべる父のいとこたちや、私のはとこたちと会い、togoiと名前の付いた魚がラ・プラタ川で泳ぐのを見て、紀元前11,000年ごろとも言われるクエバ・デ・ラス・マノスの洞窟壁画を見て人類のグレート・ジャーニーを実感し、お土産には娘が愛飲するマテ茶を買い込もう。

追伸:ここまで書いた翌朝、ホセ東郷博士の娘さんからメールが入っていた!! 
 

多久にある父の実家の家族写真。画面中央の若い女性がリンさん。後列、左から2人目が弟のタケシさん、その右隣が私の祖父。祖母に抱かれているのが私の父

アルゼンチンに渡った伯母夫婦と、二夫さんの子供たち

2021年9月10日金曜日

益満休之助

 諸田玲子の『お順』を読んだ際に、『西郷を破滅させた男 益満休之助』(芳川泰久著、河出書房新社、2018年)という小説があることを知り、図書館から『山岡鐵舟先生正伝 おれの師匠』(小倉鉄樹著、島津書房、2001年復刻版)と、勝海舟の慶応4年から明治7年の日記である『勝海舟全集』19巻(勁草書房)と一緒に借りてみた。  

 益満休之助と山岡鉄舟は、先述したように過激な尊皇攘夷テロ組織、虎尾の会を結成していた仲間であり、この会のメンバーが幕末・維新史でどういう働きをしたのかは興味が尽きない。しかし、益満を主人公にした芳川氏の小説は、完全なフィクションで、構想を練るうえで著者が前提とした多くのことが、史実とされていることと食い違っていた。  

 江戸の無血開城に一役買ったと言われる益満は、その前年、西郷隆盛の命を受けて薩摩藩邸の焼き討ち事件という陽動作戦を実行して捕縛され、伝馬町牢屋敷に収監されていた。「処刑されるべきところを海舟が命乞いして自邸に預かっていたものである」と、勝部真長は海舟日記の解説に書く。実際の日記には3月2日の条にこう書かれていた。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり、訴え出し所の家臣、南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所〔処〕せらる。早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某[それがし]申す旨ありしを以て、此頃、此事 上聴に達し、御旨に叶う。右三人、某へ預け終わる」。徳川慶喜の許可を得て、という意味だろうか。  

 5日の条にはこうあった。「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」。3人の薩摩藩士のうち、旧知の間柄の益満を同行して西郷に会いに行きたいと言いだしたのは、山岡側と読める。  

 ところが、小説は勝が大久保一翁に推薦された山岡を呼び、勝邸で偶然、益満と鉢合わせたという呑気な設定で始まる。それでいて、山岡はその日、義兄の高橋泥舟に上野の寛永寺の大慈院に呼ばれ、慶喜から拳銃をもらったという筋なのだ。  

 勝海舟は後年、『氷川清話』で「山岡といふ男は、名前ばかりはかねて聞いて居たが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考へだから用心せよといって、ちっとも会はなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間莫逆(ばくぎゃく)の交りを結ぶもとになった」と語っている。

 山岡鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹が書いた『おれの師匠』(1937年刊)には確かに、「山岡が寛永寺閉居の慶喜公に謁見したのが慶長三年[慶応4年の間違いか]三月五日」とあるが、「山岡がどうして慶喜公に近づいたか、明かでない。おれも師匠からそれを聞きそくなった。『戊辰解難録』にもその辺の消息が記されてない」とつづく。

 山岡鉄舟が書いたとされるものの大半は、安倍正人という正体不明の人物が20代の2年間に7冊を立てつづけに出版した贋作なのだという(A. アンシン「山岡鉄舟の随筆と講和記録について」)。小倉もこの安倍による『鉄舟言行録』に関して、「此の書の出所が明かでないのと著者の安倍正人とかいふ男がどんな人か知らぬから信を置けない」と、疑問を呈している。山岡が実際に書いたと言われる2つの文書が収録されたのが『戊辰解難録』(1884年)で、そのうち「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(戊辰談判筆記)という文書が江戸無血開城の始末書を指す。  

 国会図書館デジコレで『戊辰解難録』を読んでみると、こんなことが書かれていた。「当時、軍事総裁勝安房は余、素より知己ならずと雖も、曽[かつ]て其肝略あるを聞く故に行て是を安房に計る。安房、余か粗暴の聞こえあるを以て少しく不信の色あり。安房、余に問曰く、足下如何なる手立を以て官軍営中へ行やと」。このときが両者の初対面であること、勝が最初は山岡を信用しかねて、意図や計画を問いただしたことなどがわかる。やがて、「安房、其精神不動の色を見て、断然同意し、余か望に任す。それより余、家に帰しとき薩人益満休之助来り。同行せん事を請う。依て同行を承諾す」とつづく。  

 『戊辰解難録』には、山岡が勝邸を訪ねた記述の前段に、「一点の曇なき赤心を一、二の重臣に計れども其事決して成難しとして肯せず」とあるため、一般には3月5日に上野で慶喜に謁見したあと、幕臣を何人か訪ねて交渉したあと勝を訪ねたと解釈されている。しかし、当時、大半の幕臣が番町や駿河台、神田小川町などに住んでいたことを考えれば、謁見と同日に、事情を説明しながら数軒を訪ねたあと赤坂の氷川の勝邸に向かって、夕暮れまでに着いたのかと疑問が湧く。身分証明書のない時代に、慶喜の命を受けて西郷の元に単身乗り込むならば、その旨を一筆書いてもらわなかったのか。慶喜の書があっても「一、二の重心」は協力しなかったのか、など腑に落ちないことは多々ある。  

 勝の記録と山岡の「戊辰談判筆記」は、このように微妙に食い違うので、当時の状況は詳らかにはわからないが、勝の「胆略」が益満らを預かっていることまで含み、それを事前に慶喜本人もしくは、側に仕えていた義兄の泥舟から山岡が聞いていた可能性は高いだろう。虎尾の会の仲間であることは、「余か粗暴の聞こえある」を気にしていた山岡にしてみれば、おおっぴらに自慢できる間柄ではない。益満は死刑囚であり、責任をもって自分の預かりとしたのに、その身柄を初対面の相手に委ねるうえで勝には相当な決心が必要だったはずだ。山岡の帰宅後、益満がふらりと一人で現われたと考えるのは非現実的だ。ここはやはり勝の日記が示すように、益満を同伴する策が山岡側からの提案であって、5日当日、彼が連れ帰ったのでなければ、山岡邸までは勝が誰か警護をつけて送りだしたと考えるべきだろう。2人が駿府に出立したのは翌6日なのだ。  

 この間の出来事を勝部氏は、益満という人物は「旧年中の西郷の挑発行動──火つけ、強盗、押込みによる江戸市内撹乱のリーダー格である。この益満を同行して西郷に逢いにゆく事は、西郷の意表を衝き、西郷の一番痛い所、権謀術数の汚い面を海舟がすべて知っているぞと匂わすことである」と、解説する。  

 益満の小説では、慶応3年に西郷から江戸を掻き回すように命じられた益満や伊牟田尚平、相楽総三らは、「お国のために死んでくれ」と頭を下げられていたとする。虎尾の会の仲間だった伊牟田は慶応4年6月15日に強盗事件を起こして収監され、翌年7月に判決が下され、京都二本松の薩摩藩邸で自刃させられた。相楽は虎尾の会とは無関係の下総相馬郡の郷士で、赤報隊の隊長として東山動軍の先鋒となって活動したのに、のちに官軍の手で殺された。小説では益満も上野の戦いで西郷の「撃て」の命令のもとに殺されたのだが、じつはそこで九死に一生を得て名前を変えて生きつづけていた、という設定になっている。  

 だが、先述したように、益満は上野で死んだのではなく、5月15日に黒門前で負傷して横浜の軍陣病院まで運ばれ、そこで雨の日に病室の移転を希望したために、濡れた傷口が化膿して5月22日夕方7時ごろに死去したことが、昭和なかばに東大医学部で偶然に発見された病院の日記から判明している。郷里の鹿児島の草牟田墓地に彼の遺髪墓があるらしく、ネット上で見る限り、その墓標にもこの命日が刻まれていた。勝海舟も5月24日の日記に「昨日、益満休之助死す。此程、上野にて砲疵を受けたりしが、終に死せり」と、1日ずれてはいるが、書いている。西郷に意図的に殺されたわけではない。また、フィクションとはいえ、幕末のこの時代に西郷が「お国のために」というナショナリスト的な言い方を実際にしたのかという点も気になった。  

 このように、肝心の益満休之助に関しては、芳川氏の小説は重要な点を見逃したまま、奇想天外な筋を考案した感が否めないが、江戸の無血開城に関連してイギリス側の圧力があった点を思いださせてくれたことはよかった。私が祖先探しを始めた当初に購入した萩原延壽の『遠い崖:江戸開城』7巻を久々に読み返してみたら、よく理解できるようになっていた。いずれ、この観点からも調べ直してみよう。  

 芳川氏の小説は、中江兆民が登場するあたりから、ルソーの『民約論』(『社会契約論』)が明治の日本でどう受け止められたのかが描かれ、この辺の事情にはまるで疎い私としては面白かった。明治になる前に死んだ益満とは切り離して、中江を主人公にした小説にすればよかったのではないかと思った。  

 一緒に借りた2冊の書からは、多くの発見があった。お順が夫、佐久間象山の死後、腐れ縁のように付き合った村上俊五郎に関する記載は、どちらの書にも多々あったので、諸田氏はこれらを参照して小説にしたのだろう。 『おれの師匠』には、「鐡門の三狂」であり「鐡門の四天王」の一人であった村上政忠(俊五郎)に関する、かなりまとまった項がある。「三狂」は村上のほか、松岡萬、中野信成で、「四天王」はそれに「師匠の義弟に当たる石坂周造」が加わるという。松岡と石坂は村上同様、虎尾の会以来の仲間で、石坂周造の妻、おけいは、山岡の妻英子(ふさこ)の実妹という。つまり双方の妻が高橋泥舟の姉妹ということになる。  

 松岡萬については調べたことがなかったが、1882年3月に書かれたという「戊辰談判筆記」は、松岡から大森方綱なる人物が借り受け、おそらく本人の了承を得ずに無断で同年6月に最初に『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』として出版されたもののようだ(A. アンシン、「山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始末書」)。

 この文書がどういう経緯で誰に向けて書かれたかは不明だが、明治という時代ゆえか、慶喜にたいする山岡の本音なのか、「旧主徳川慶喜」と呼び捨てで書かれている点が気になった。実際、山岡の死期が迫った際に、徳川家達は見舞いにきたものの、当時まだ静岡にいた慶喜が上京した形跡はない。勝海舟は何度かやってきて、臨終前は「前日来二階につめきって居た」という。虎尾の会が倒幕組織だったことを考えれば、実際、山岡の立場は複雑だったに違いない。「余は国家百万の生霊に代わり生を捨るは、素より余か欲する処なり」というその一節は、いかにも明治の作文と思うが、幕末の山岡にすでに徳川家ではなく、日本の国民全体を救うという思想があったとすれば、勝海舟との共通点はそこにあったのだろう。

 1881年に明治政府が維新勲功を調査した際、山岡が「おれか。おれは何にもない」とにべもなく自身の功績を否定したため、岩倉具視が山岡を呼び寄せて話を聞いたという一件があったという。それが何かしらこの文書を書いたことと関係するだろうか。山岡は10年間という条件で宮内省に勤めて、1882年6月に辞職している。ところが、山岡が辞職させられたと勘違いして腹を立てた松岡が、「短刀を懐にして、岩倉さんを訪れた。岩倉さんを刺し殺して自分も死ぬ覚悟なのである」と、小倉は書く。もっとも、岩倉のほうが数枚上手で、うまいこと言いくるめられて帰宅した松岡は、今度は自殺未遂をする。このように、いかにも「三狂」なのだが、松岡から原稿が漏れた経緯には何かこうした事情も関連するのだろう。  

 同年秋ごろ、徳川家達が山岡の維新時の功労をたたえて贈った武蔵正宗を、山岡が自分などそれに値しないので、「誰か廟堂の元勲に差上げるのが至当である」と考えて岩倉具視に贈呈した。このとき岩倉が書かせたのが「正宗鍛刀記」という。またもや岩倉である。

「四天王」の1人で、日本で最初に油田を開拓した石坂周造についても、三十万円の借財を山岡が背負わされ、最後まで苦しめられたが、「山岡の死後徳川さんと勝さんとで整理したのであった」と、書かれていた。  

 一方の海舟日記で村上の名前が最初に見られるのは、慶応4年4月4日で、ただ一言、「村上俊五郎来る」とあり、25日には「山岡来る。市中取り締まり、石坂、村上の事相談」などとある。諸田氏の小説のように、3月5日に山岡が同伴してきたのかどうかは不明だ。5月14日には、「多賀上総宅、官兵焼打ち、我が宅へ乱入。刀槍、雑物を掠奪し去る。夕刻、村上俊五郎、田安へ来りその転末を話す」と、ほぼ小説にあったようなことが記されている。だがその後は「織田、村上俊五郎、金子押貸し、妄行の旨、申し聞る」(明治3年12月25日)、「浅野、村上〔俊五郎〕乱防の事内話。切腹或いは入牢然るべしと云う」(明治4年4月13日)、「山岡、村上〔政忠、海舟の妹お順の旧夫〕、水戸辺脱〔走〕中、発狂の儀なりと」(明治5年8月29日)、「村上俊五郎へ二百両遣わす」(明治6年4月17日)などの記述が増え、明治初期からとんでもない人物であったことがよくわかる。 

 諸田氏の小説のなかで、お順が兄の海舟をもう臆病だと思わなくなった象徴的な一件は、その現場を彼女が見たかどうかは別として、慶応4年4月10日の条にこう書かれていた。「此夜 思召しを以て御刀拝領。仰せに云う。頃日よりの尽力、深く感じ思召す所[……]此上言のかたじけな気を承りて、覚えず汗背、亦(また)感泣、申す処を知らず。明日城地の御引き渡しは頗る難事、唯一死を以て此上意に報答し奉らむか」  

 益満休之助について少し調べるつもりが、ずいぶんと多くの新しい発見があり、これでまたさらに読むべき本が増えてしまった。

2021年9月4日土曜日

『ショック・ドクトリン』上巻を読んで

 以前から一度読んでおこうと思いつつ、上下2巻の大作で、なかなか手がでなかったナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)の、とりあえず上巻だけ目を通すことができた。翻訳の大先輩である幾島幸子さんが、村上由見子さんと共訳なさった作品であり、昨年から「コロナ・ショック・ドクトリン」などと言われだし、再び注目を集めていたのはよく知っていたが、少し前にリーディングをした衝撃的な本で言及されていたために、ようやく読んでみる気になった。下巻が読めるのはいつのことやらなので、忘れないうちにメモ程度に書いておく。  

 政治・経済分野の本は、正直言って苦手なほうだが、下訳時代に9/11以降のネオコンの台頭に関連して、プレストウィッツやエモットの本を訳したことはあったし、本書で克明に綴られる中南米の凄まじい状況も、チョムスキーの『覇権か、生存か』で苦労しつつ訳したこともある。  

 とはいえ、いずれも20年近く前のことであり、よく理解しないままに終わっていたので、ナオミ・クラインの非常に明解な説明と、読みやすい訳文のおかげで、ようやく少しばかり全体像が見えてきた気がする。1970年生まれの著者が、1973年のチリ・クーデターの背景に、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンと、シカゴ大学で彼の教えを受けたチリ人留学生たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことを見事に説明してみせたのは、画期的なことではないだろうか。  

 1957年から1970年までにアメリカ政府の資金で学んだ約100人のチリ人留学生たちは、帰国するころには、「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」という。つまり、徹底的な自由市場経済体制に国家を改造すべく目論む思想だ。しかし、チリでは1970年には経済の主要な部分を国有化する政策を打ちだしたアジェンデが政権の座に就いており、この政権を阻止すべく動いたのが、前年アメリカ大統領になったばかりのニクソンだった。それによってピノチェト将軍による軍事政権が樹立し、アジェンデ政権中枢部が殺害・拘束されただけでなく、1万人以上の市民が逮捕され、大勢の人がサッカー場で見せしめに虐殺されるなど、「抵抗は死を意味する」ことがチリ全土に示された。  

 そんな野蛮な独裁制を、なぜ自由と民主主義を標榜するアメリカが支援するのか。その理解に苦しむ現象のからくりを、本書は解き明かす。衝撃的な出来事を巧妙に利用する政策を、著者クラインは「ショック・ドクトリン」と名づけている。 「つまり、深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、〈改革〉を一気に定着させてしまおうという戦略だ」という。

 フリードマンの教義が前提とするのは、「自由市場は完璧な科学システムであり、個々人が自己利益に基づく願望に従って行動することによって、万人にとって最大限の利益が生み出される」という考えだ。インフレ率や失業率が上昇するのは、市場が真に自由でなく、何らかの介入やシステムを歪める要因があるからだ、というわけだ。著者は自己完結したこの教義を資本原理主義と呼ぶ。  

 資本主義と自由はイコールだと信じるフリードマンの教義は、実際には自由の国ではなかなか受け入れられず、「自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった」。そのため、シカゴ学派の学者たちは世界中の軍事政権を跳び回ったのだという。  

 ニクソンはのちに、フリードマンの助言に従わずに賃金・価格統制プログラムを実施してインフレ率を下げ、経済を成長に転じさせ、フリードマンを激怒させたという。しかも、それを実施したのが、フリードマンの教えを受けた一人で、当時、新人官僚だったラムズフェルドだったそうだ。意思決定が複雑な民主主義国家では、外部から適切なブレーキがかかるという意味だろうか。  

 本書によると、フリードマンとシカゴ・ボーイズがピノチェト政権下のチリで実現したのは、資本主義国家ではなく、コーポラティズム国家なのだという。この用語の説明部分は何度読んでも意味がわからず、ネット上の定義もあれこれ読んでみたものの、著者の意図がいま一つ飲み込めなかったので、ネットで原文を探して自分なりに訳してみた。

「コーポラティズムはもともとムッソリーニが目指した警察国家モデルで、そこでは社会の三つの勢力である政府、財界、労働組合が同盟を組み、ナショナリズムの名のもとに秩序を保つべく三者が協力し合うものだった。ピノチェト政権のチリが世界に先駆けて実行したのはコーポラティズムの進化だった(…was an evolution of corporatism)」。この箇所が訳書では、「チリが世界に先駆けて発展させたのは、まさにこのコーポラティズムだった」となっている(上巻、119ページ)。 

「すなわち、警察国家と大企業が互助同盟を組み、第三の勢力部門である労働者にたいする総力戦をするために手を結び、それによってこの二者の同盟による国富の取り分を大幅に増加させるものだ」と、つづけば意味が通るのではないか。つまり、著者がこの言葉を従来の意味ではなく、労働組合と労働者を除外して、国家と企業だけが手を結んだ形態として使ったのだと解釈すれば、である。非正規雇用が増えて、組合幹部だけが国家と企業と結託するという意味なのか等々、いろいろ考えてしまったが、そうではなさそうだ。  

 たとえば、サッチャーはイギリス版フリードマン主義を導入して、公営住宅を安価で購入できるようにして、のちに「オーナーシップ・ソサエティ」呼ばれる政策を掲げたものの、就任3年後に支持率は25%にまで落ち込んだ。ところが、「コーポレート作戦」という、コーポラティズムを示唆する軍事作戦というショック療法に着手して、フォークランド紛争に勝利したため、支持率は59%に急上昇した。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「二人の禿頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と揶揄した、この紛争によって生じた混乱と愛国的熱狂に乗じ、サッチャーは強権を行使して炭鉱労働者のストライキを潰した。こうして、「民主主義国家でもそれなりのショック療法は実施できることを、サッチャーは身をもって示した」のだという。  

 レーガンとサッチャーの時代を経ると、「真のグローバルな自由市場を邪魔する者はいっさいいなくなり、制約から解き放たれた企業は自国内のみならず、国境を越えて自由に活動し、世界中に富を拡散することになった」。

 上巻にはチリのほか、インドネシア、アルゼンチン、ボリビア、南ア、さらには天安門事件や、ポーランドの「連帯」、ソ連崩壊など多岐にわたる事例に触れている。新聞やテレビで知っただけの歴史的事件が、クラインの解説を読むことで初めて、「そういうことだったのか!」と、目から鱗が落ちるようにわかってきた。ボリビアとポーランドでフリードマンに代わって暗躍した経済学者は、ジェフリー・サックスだった! 話題作となった『貧困の終焉』を読んで少しも共感しなかった理由が、いまになってよくわかる。ハイパーインフレのニュースばかりが伝わっていたアルゼンチンで諸々の恐ろしい事件が起きていたことを知ったのが、個人的には大きな衝撃だった。なにしろ、1930年代にアルゼンチンに移民したまま音信不通の遠い親戚がいるからだ。いつかまとまった時間の取れるときに、下巻を読みつつ、もう一度、上巻もおさらいしよう。