2016年10月31日月曜日

タイ旅行2016年

 9月末に、久々にタイへ数日間行ってきた。プミポン国王が亡くなる少し前だったので、まだ平常どおりのタイを見て、友人たちとも旧交を温めて、楽しいひと時を過ごせたが、今後、タイ社会はどう変わるのだろうか。  

 今回はフアヒンヘ行ったので、プラチュワップ・キーリーカン県内のカオ・サームロイヨートまで足を伸ばした。ここを訪ねたかった理由は二つある。一つ目は1868年8月18日に、ラーマ4世、つまり『王様と私』のモンクット王が皆既日食を観測した場所と言われているからだ。タイでは昔から何事も占星術で決めてきたが、僧侶時代に西洋の天文学を独学した王は仏暦が不正確であることを知った。みずから計算をして皆既日食の日時と適切な場所を割りだし、チュラロンコン皇太子と西洋人の天文学者らの前でその時刻を秒単位で当てて見せたことで、王の威光を国内に示しただけでなく、西洋諸国にもタイ(シャム)人が科学を解する民であることを証明したのだという。モンクット王のこの偉業は、タイが東南アジアのなかで唯一、西洋に征服されることなく、独立を保てた理由の一つと言われる。もちろん、領土の割譲など、それ以外の要因のほうが大きいだろうが、幕末に西洋の技術をいち早く習得して、日本は侮れない国であることを示そうと腐心した幕府の試みと重なるものがある。 

 日食を観測した具体的な地点はわからず仕舞いで、仕方なくグーグル・マップでこの半島の地図を眺めていたところ、ケイヴ・テンプルなる場所を見つけ、とりあえずそこへ行くことにした。プラヤーナコーン洞窟というこの鍾乳洞は道路が通じておらず、小舟で近くまで行くしかない。しかも海岸には桟橋もなく、靴を脱いでズボンをたくしあげ、浅瀬をジャブジャブと歩いて乗り込まなければならない。洞窟までは山道を430メートル登る。まだ雨季の最中で、頭上に雨雲が垂れ込めてきたときに洞窟内に入ると、頭上にぽっかりと開いた割れ目から差し込む光とともに、降りだした雨が銀色の粒になって落ちてくるのが見えた。暗い洞穴のなかでも、割れ目の下だけは植生があり、まさしく恵みの雨に思われた。洞窟のさらに奥に、やはり頭上に大きな割れ目のある広い空間があり、中央にはチュラロンコン王時代に建てられたという祠があった。モンクット王は日食観測のときにマラリアに冒され、その後まもなく永眠したので、息子にとってここは思い出の地だったのかもしれない。

  もう一つの理由は、1941年12月8日、ちょうど真珠湾攻撃と同日に、マレー作戦で日本軍が上陸した地点の一つだと、どこかで読んだからだ。下調べ不足で、実際の上陸地点はさらに40キロほど南の、ラウム・ムワック山という半島の南北にあるプラチュワップ湾とマナオ湾であったことを帰国後に知った。ビルマとの国境まで10キロという地点だ。その他の上陸地点はさらに南部が多く、12月のこの時期に大雨が降るので、作戦当日も荒天で難儀したようだ。ざっと調べたところによると、タイ中部南端付近のプラチュワップでは、陸軍が徴用した輸送船、浄宝縷丸に乗り込んだ千人余りの宇野支隊の一部が、7隻の小舟に分乗して上陸作戦を実行していた。真珠湾攻撃は手違いから宣戦布告が遅れたことで知られるが、同日に奇襲が計画されたマレー作戦では、ハーグ陸戦条約などは無視して、端から宣戦布告する気もなく対英戦に突入した。それどころか、友好国のタイに領土内通過を承認させようとしたのが奇襲の数時間前で、ピブンソクラーム首相はイギリスとの関係悪化を恐れて日本主催の晩餐会に姿を見せず、正式な協定を結ぶことなく午前3時には上陸が開始された。翌日の昼過ぎまで戦闘がつづいて、日泰双方に多数の犠牲者がでたという。

  この時代、英仏日の三国から迫られていたタイは、二重外交で難局を切り抜けようとし、捕虜を使った軍需物資輸送用の泰緬鉄道の敷設という日本側の無謀な計画にも協力した。連合軍側の捕虜約6万5000人の2割ほどが過酷な労働や虐待、疫病、飢えで死亡したことは、映画『戦場にかける橋』などで有名だが、東南アジア各地から連行されてきて、人数すら正確に把握されていない数十万の「労務者」からも7万人以上の死者がでたことはどれくらい知られているだろうか。カンチャナブリーのクウェー川鉄橋やJEATH戦争博物館へは、十数年前に行ったことがある。日本兵に虐待される捕虜を描いた展示物や、連合軍共同墓地に眠る若い兵士たちの墓標を見るのは辛かったが、鉄道そのものは観光地化されていて拍子抜けした覚えがある。靖国神社の遊就館に展示された泰緬鉄道の蒸気機関車前では、知ってか知らでか、若者たちがピースサインを掲げて記念撮影していた。茶番劇として歴史が繰り返される予感がした。

  マレー作戦で主任参謀を務めたのは、最近また著作の復刻版がやたら宣伝されている「作戦の神様」、辻正信中佐だった。終戦はバンコクで迎え、僧侶に変装するなどして「潜行三千里」で東京裁判を免れ、のちに返り咲いて衆議院議員にまでなったものの、謎の失踪を遂げた人物だ。プミポン国王の兄で、20歳で死去したラーマ8世の死に、辻が関与していたという説まである。親日家のピブンソンクラーム首相は、戦後の度重なるクーデターを巧みに乗り切り、1957年の第8次内閣まで政権の座に居座ったが、晩年は日本に亡命して相模原で生涯を終えたという。誰を頼って来日したのか、気になるところだ。日本とタイの思わぬ結びつきを、いまごろになって知る旅となった。

 カオ・サームロイヨート

 プラヤーナコーン洞窟