2024年9月28日土曜日

2024年9月上田旅行

 ブログを長らく放置してしまった。最低、月に一本は書こうと決めていたので、ない時間をひねりだして短い近況報告だけ書いておく。 

 先週末は「忠固研」の研究会があったので、また上田に行ってきた。連休初めの新幹線があれほど混むとは予想しておらず、指定が取れなかったため早めに出たところ、運良く自由席に座れたので、集合時間までの数時間を利用して、前回、訪ね損ねた佐久間象山の師である活文禅師が隠居後に移ってきたという毘沙門堂跡に寄ったあと、藤本つむぎ工房を訪ねた。自費出版した『埋もれた歴史』の表紙に、この工房で購入した切り売りの反物の画像を使わせていただき、その後、献本だけして、お礼に伺っていなかったためだ。 

 よほど奇妙なお願いをした客だったからか、ご主人は私のことをちゃんと覚えていてくださり、今回は縦糸をつくる大きな機械がある紬の工房のなかも案内していただいた。湿度管理が難しいことから、国内ではもう紡ぎ糸がつくれない現状や、草木染めは扱わないことまで、多岐にわたる話題で長々と話し込んでしまった。同じ生地があればもう少し欲しいと思っていたのだが、店内にあったのは多少色味が異なったので、今回は違う模様の生地を2種類、またごくわずかな長さで購入した。 

 研究会の一日目は昼から夜の八時まで、途中でお弁当を食べながら、延々と各自の論文の発表があった。翌日は、現地の明倫会の方々などのご手配で、マイクロバスを貸し切って別所温泉に入浴でも宴会でもなく、倉沢運平という大正期に蚕種産業を発展させた人の産業遺構を「視察」に行った。二階建ての旅館にしか見えない大きな蚕室は、解体される寸前だったそうだ。明治期に倉沢が朝鮮、ロシア、大陸ヨーロッパなどを視察して得た知識をもとに、独自に考案したオンドルというか、セントラル・ヒーティングのようなものが設置されていた。川の合流点の傾斜地に建つこの建物の土台部分には、川からの涼しい風を取り込める石積みの地下室があり、桑を新鮮な状態に保つための貯蔵庫にしていたという。 

 保存運動をなさっている地元の先生方から蚕室で解説していただいたあと、蚕の孵化を遅らせるための人造の氷沢風穴まで細い山道をマイクロバスで登り、天然冷風扇のようなものを体験した。火成岩がところどころ陥入した地形で、ヒン岩という礫が堆積した場所に、さらに岩を隙間を残して積んだ地下倉庫のようなもので、階段を数段下りるだけで周囲の気温が数度は下がり、驚くほどひんやりとしていた。かつては上に建物があり、夏でも10度以下に保つことで、孵化時期を調整し、夏、秋まで、桑のある限り数度に分けて養蚕ができるようになったとか。 

 このあと曹洞宗安楽寺の鎌倉期の八角三重塔も見学した。いかにも中国由来の建築物で、寄木細工のように細い木材を重ねることで、曲線が描きだされていた。こけら葺きの屋根は、さすがに何度も葺き替えているとのこと。活文禅師は中国に密航したわけではなく、長崎で中国人から学んだようだが、上田のこの一帯には鎌倉時代にも中国人技術者がきていたのかもしれない。

  研究会はお昼で解散だったので、上田電鉄とバスを乗り継いで戦没画学生慰霊美術館「無言館」まで足を延ばした。学生時代に窪島誠一郎の『父への手紙』を読み、その後、無言館が開設されてまもない時期に、母が同窓会の帰りに寄って、素晴らしかったと話すのを聞いて以来なので、四半世紀を経てようやく、という感じだった。コンクリート打ちっぱなしの外観は、ベルリンのリベスキンドのユダヤ博物館を連想させ、館内にはそれなりの数の来館者がいたにもかかわらず、誰もが無言で作品と若い画学生たちの遺品に見入っていた。享年が27歳から29歳の人が多く、フィリピンで戦死した人が多く、病死、餓死、沈没事故などで命を落とした人もいた。

  入ってすぐの一角に芳賀準録という23歳でフィリピンのルソン島で亡くなった若者の静物画があり、雑然と積まれた本の上に置かれた人形に目が釘づけになった。じつは旅行前からちょっとした計画を立てて小さな日本人形をつくっており、紬のはぎれはその着物をつくろうと購入したものだった。絵のなかの人形は、おさげ髪でズボンを穿いているのだが、仕事の合間に工作を始めることの多い私には、自分の机の絵を見たようで、虚を突かれた気がした。  

 ミニサイズの着物を縫うのは、老眼の私には厳しいものがあったが、とりあえずそれらしきものはできた。日本人形は苦手なほうで、黒々とした髪がもっさりとした市松人形はとくに好きになれない。ガラスの目が埋め込まれたという設定なので、粘土に手持ちの天然石ビーズを埋め込みはしたが、目鼻はできる限り単純なものにし、動かせるようになかに針金を入れた。人毛かと思うような真っ黒の細い糸は怖いので、手持ちの太めの生糸を染められたらと試行錯誤し、ヤシャブシ、コーヒーなどを鉄媒染し、あれこれ掛け合わせてみたが、藤本つむぎ工房のご主人が言われたように、どれも「いろんなグレーか茶色にしかならない」。調べてみると、黒染めは最初は墨で、のちに輸入のビンロウジが藍染に重ねて使われたらしく、容易でないことがわかった。紋付の黒の羽織は、非常に高価なものだったのだろう。幕末に黒いラシャ地がたくさん輸入され、軍服などに仕立てられた理由が見えた気がする。その名残が詰襟の学生服、学ランに違いない。これまでこの言葉の語源を調べたことはなかったが、「ラン」はオランダらしい!  

 茶色い髪の日本人形でもいいかとも思ったが、もう少しだけ濃い色が欲しい。冷凍ブルーベリーまで使って重ね染めしたのに失敗に終わった生糸は、細い紐にして帯留めにし、黒染めは諦めて、刺繍糸を買うことにした。いつか髪のある姿でお披露目したい。

藤本つむぎ工房で買った反物の着物を着た人形。無言館で見た芳賀準録の静物画を真似て

倉沢運平の蚕室地下。練炭で火を焚くと、温風が室内に行き渡るようになっていた

 氷沢風穴

 安楽寺の八角三重塔

 無言館

 グレーや茶色にしかならない