2025年10月12日日曜日

大宮さん

 数日前、校正作業への集中力が切れてしまい、眠気覚ましに久々に国会図書館デジコレで高祖父の大宮萬吉の名前で検索したところ、1996年に千代田区教育委員会が発行した『千代田区の民具 3』という一見、無関係のような書籍が新たに公開されているのに気づいた。そこには大宮家が寄贈したいくつかの古い食器類の画像のほかに、「大宮家土蔵調査報告」という詳しい報告書があり、驚くべき事実が次々に判明した。眠気が吹き飛んだのは言うまでもない。 

 報告書によれば、明治20年に高祖父が神田小川町に建てた大宮家の土蔵・文庫蔵が、昭和63年(1988)に調査が実施されるまで残っていて、「新たに重層の建物を建築すること」となって解体されたというのだ。当時の間取りの記録は残されていないものの、関東大震災でも「この土蔵のみ辛うじて災害から免かれた。大火災によって破損した土蔵を大修理改造してこれに現存の住宅が再建されたのは、大震災後の昭和3年のことであった。その再建の後、16年を過ぎた昭和19年から20年におよぶ、今次対戦[ママ]における数次にわたる東京大空襲に際しては、幸いにして難を免れたのであった」と、報告書はつづく。 

 しかも、調査時の所有者は大宮たづ子、正義ほか共有となっており、「大宮材木店の初代から数えて4代目にあたる」という。俄然、興味が湧いて大宮正義氏の名前で検索すると、自民党選出の千代田区議会議員を長年務めたあと、2004年に亡くなっていたことが判明した。大宮さんは、てっきり小川町を離れて材木を扱うのに適した木場へ移ったのだと思っていたが、少なくとも20年前まで子孫の誰かがこの地に住みつづけて、千代田区議などになっていたのだ。30年ほど前の情報では、職業は材木関連ではなく飲食店経営となっていた。祖先探しで小川町は何度か歩いたことがあるのに、なぜこの事実にもっと早く気づかなかったのか。 

 翌日も気になって、2019年に千代田区役所でもらった除籍謄本を引っ張りだし、萬吉さん長男の徳太郎氏をはじめ、そこに書かれている大勢の名前を検索してみた。昭和4年刊の『神田区人物誌』には、これまた神田区会議員だったという徳太郎氏の項に、「代々和泉屋と号して木材商を営めり。此の度、復興事業に際会して、木材の需要頗る増大せり。氏は生粋の神田っ児にして、意地と張りを有し、義侠心に富み、公共事業の為には何ものをも惜まず[中略]氏は特に一宗派を信仰する者に非ざるも、社会人として道徳を根底に置き、久遠なる宇宙に思を寄せ」と大いに誉めそやしたあと、「和泉屋の門戸は牢として動かざる地盤と、顧客を有し、都下斯業界の重鎮たりしが、現在は廃業の状態に在り」などと書かれていた。関東大震災のあと、一時的に材木業も盛んになったが、小川町のような街中ではやはりつづけにくかったのだろう。 

 このページに掲載された徳太郎氏の写真は40代くらいに見えるが、2年前に同氏の長男精一氏のご子孫を探り当て、訪ねた際に見せていただいた白い長い鬚を生やした写真の人物と同一であることは疑いない。昭和11年刊の『土木建築業並関係業者信用録』の大宮精一氏の項には、「当家は先代大宮萬吉氏が愛知県下より上京し、神田丸太河岸佐藤由兵衛氏経営の材木店にて修業後、現業を以て独立せしに始り」とある。大一木材の大宮巨統さんからは、深川の材木屋で丁稚奉公と伺っていたので、下積み生活が長かったのかもしれない。 

 昭和2年刊の『国民自治総覧』の徳太郎氏の項には、「抑も同家は維新前愛知県海原郡より上京、多年材木業界に刻苦精励して独立、今日の基礎を築ける大宮萬吉氏の苦闘苦心の結晶なり」と書かれていたほか、萬吉さんは「八十歳の高齢を保ちて今尚矍鑠たり。老来益々勇躍淋凛[ママ]町内の夜警衛生等に尽瘁して殊功あり」と絶賛されていた。祖父母のアルバムに残された葬儀の写真に、神田公友会などと読める花輪が所狭しと並んでいた理由がわかる気がした。 

「海原郡」は正確には海東郡だろう。除籍謄本によれば、私の高祖父に当たる萬吉さんは尾張国海東郡勝幡村で弘化4年に生まれている。その後、深川熊井町に住んだのち、明治8年3月に神田小川町1番地に越し、徳太郎氏はその1カ月後に生まれていた。徳太郎氏の生母は産後まもなく亡くなったと思われ、翌9年に私の高祖母に当たる志げさんを後妻に迎えている。昭和3年に志げさんが先に中野で死去していたので、てっきり小川町は引き払ったものと思っていたため、今回の発見はまったく意外だった。

  100年にわたって存在した土蔵があったのであれば、萬吉さんの店がそこにあったと考えてよいだろう。萬吉さんの次女である私の曽祖母タケさんは「神田区小川町壱番地」生まれだが、この「1番地」は、山城淀藩の稲葉丹後守正邦の上屋敷跡で、かなり広大な一画すべてに「1番地」の番号が振られていた。明治32年ごろに作成された『東京名所図会』では、大宮萬吉木材店は「一番地の西方即ち戸田邸前通りにあり」となっているが、いまの靖国通りの南側にあった戸田忠行邸は、小川町一番地の向かいではなく、いまの小川町3丁目(幕末にはただ「御用屋敷」)の向かいに位置していた。私の学生時代には、3丁目付近までスキー用品店がびっしり並んでおり、記憶が正しければニッピンの神田店などもあった。 

 明治9年の「明治東京全図」では、「壱番」はまだ「稲葉正邦」となっているが、その前年に高祖父がその一角に店を構えていることから、淀藩のこの屋敷も没収され、分割されて新たに台頭してきた大宮さんのような庶民に売られていたのだろう。土蔵は「大宮材木店の東側に隣接する同一敷地内」だという『千代田区の民具』の記述と図から、場所を特定すると、その名も大宮ビルという2棟の建物がグーグルマップ等から確認できた。これらが新たな「重層の建物」に違いない。 

「明治東京全図」には、小川町の「壱番」と通りを挟んだ向い側の錦町に、「九條道孝 区務所」と書かれたかなり大きな区画がある。この数年、九条家について散々調べて論文まで書いた身としては、興味を抱かずにはいられない。大正天皇妃となった九条節子はこの別宅で明治17年に誕生したらしい。私の曽祖母タケさんはその前年に生まれている。 

   明治の小川町界隈は、仏文会(現法政大)の跡地に東京物理学校(現理科大)が入るなど、新しい東京の文化の中心地のような場所であったことは、以前に調べた際に知っていたが、改めて地図を見ると、東京英語学校や開成学校があるし、神田川方面に坂を上った先には「魯国公使附属ニコライス」の文字も見える。いまのニコライ堂(1891年竣工)の場所だろう。少し右手の筋違橋門の手前には、上田藩が1世紀以上にわたって上屋敷をもっていたが、幕末にその地にあったはずの青山下野守の屋敷なども、明治9年の地図では跡形もない。 

『神田区人物誌』はタケさんの異母兄である徳太郎さんが、「子福長者にして家庭には九人の子女あり」とも書く。除籍謄本では7男4女の名前が確認できるが、息子のうち2名は早世したのかもしれない。長男が精一氏で、『木材総覧』(1976年)などから、小川町の店は3男の松三氏が継いだものと思われる。残る3人の息子と思しき人物は、それぞれ関東逓信病院の医師、電電公社の職員、茨城大学の心理学教授に見つかった。娘たちの行方は、残念ながらたどれない。大宮さんは材木問屋と思い込んできたが、それぞれに多様な道を歩んでいたこともわかり驚いた。 

 折しも、10月25・26日に神保町ブックフェスティバルの「本の得々市」で、拙著『埋もれた歴史』(2020年刊)の版元であるパレードブックスさんが出店し、在庫が減らずに困っている拙著も売ってくださるというお知らせをいただいていたところなので、校正中で気持ちの余裕はまったくないが、現地調査を兼ねて小川町・神保町を大急ぎで歩き回ってみようかと思っている。うちの親族はみなそれぞれに忙しく、一族の歴史などにほとんど興味を示さないのだが、母のいとこがお付き合いくださるとのことなので、雨天でない限り、いずれかの日に決行しようと思っている。何か新たに判明したら、この記事に付け足すなり、改めて報告を書くなりしよう。

   なお、土蔵に保存されていた「数々の貴重な民俗資料」は、1995年創立の千代田区立四番町歴史民俗資料館に寄贈されたと報告書には書かれていたが、調べてみると、市ヶ谷にあったこの資料館は早くも2011年には閉館し、日比谷図書文化館に機能移転していた! 日比谷公園内のこの三角の建物は、ここ数年、毎秋、赤松小三郎研究会の講演会の会場となっており、考えてみれば、展示室のようなものを見たことがある。大宮さんからの器などは、おそらく倉庫に仕舞い込まれているだろうが、この11月3日にも河合敦氏の講演会「赤松小三郎に影響を与えた人々〜最新の幕末史研究を踏まえて〜」(14:00開演)に行く予定にしているので、ダメ元で一応覗いてみることにしよう。私の曽祖母タケさんが使っていたかもしれない器であれば、ぜひ見てみたいものだ。

2025年10月5日日曜日

『軽井沢物語』

 前回のコウモリ通信をお読みくださった赤松小三郎研究会の方が、「故郷の地名がでてくるたびに懐かしさもヒトシオ」という感想とともに、研究会でご一緒だったノンフィクション作家の故宮原安春さんが『軽井沢物語』(講談社、1991年)のなかで、ダニエル・ノーマン(ノルマン)について書いておられたことを教えてくださった。研究会にお邪魔したてのころ、高祖父について判明していた若干のことを報告したところ、宮原さんからメールを頂戴し、何度かやりとりをしたことがあった。ただし、ご著書を読んだことはなかった。早速、図書館から借りてみると、軽井沢に外国人墓地を発見したのを機に、この避暑地の歴史を紐解いた力作だった。しかも、相当なページ数がノーマン一家に割かれていた。

  私自身は軽井沢には数度しか行ったことがなく、姪の結婚式に出席した2016年に訪ねたのが最後だ。式の前日だったか、母と旧碓氷峠まで足を伸ばし、そこでラビンドラナート・タゴールの碑を見つけて驚いたことがあった。タゴールはアマルティア・センの名づけ親でもあったからだ。1913年に詩集『ギタンジャリ』でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞している。軽井沢には日本の女子高等教育に尽力した日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きできたことは認識していたが、現地の案内板の写真を読み返してみたら、1916年(大正5)、「当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した」と書かれていた。ふむ、なるほど。

 『軽井沢物語』にはタゴールのことは書かれていなかったが、碓氷峠の変遷については詳しく説明されていた。当時、私はきちんと理解していなかったが、この旧碓氷峠こそが江戸時代からの中山道上の難所で、群馬県の坂本宿と軽井沢宿を結んでおり、幕末の戊辰戦争中にウィリアム・ウィリス医師が馬で越え、上田で私の高祖父に会ったあと、高田、新潟、新発田などを経て会津まで従軍した際に通った峠である。

 『軽井沢物語』によると、1883年(明治16)から翌年にかけてこの碓氷峠の南側に明治政府が勾配の緩い国道を、渓谷には橋を架けて建設したのだそうだ。国道とともにアプト式の鉄道も開通したために、軽井沢の宿場は一気に寂れたが、そこへ外国人がやってきて、避暑地として旧軽井沢が再発展したらしい。この国道18号旧道のほうは、私が子どものころ屋代の祖父母の家に行くために母の運転する車に乗って、184回のカーブを登った道だ。車酔いする私は後部座席に寝転がってひたすら耐えていたが、助手席の姉がカーブ数をかぞえて母を励ましていたのを覚えている。1971年には碓氷バイパスが開通している。私はいつか祖先やウィリスが通った中山道を歩いてみたいと思っているのだが、国道18号やバイパスですらサルやクマが出没するようなので、何やら難しくなってきた。 

 軽井沢の「発見者」であり、聖公会宣教師だったカナダ人のアレクサンダー・ショーゆかりの地も、このとき訪ねた。宮原さんはショーが最初に軽井沢にきて別荘第1号を構えたのは、1886年(明治19)の可能性が高いとしている。中山道沿いにあった旅籠を改築した家を買うか、借りるかしたもので、善光寺参りの旅行者が旅籠と間違えて、夜昼かまわずドアをノックするのでたまりかねたという逸話が紹介されていた。 

 同書によると、 1899年(明治32)8月になって文部省からキリスト教教育の禁止が発令された。その2年前に来日していたカナダ・メソジスト教会牧師のダニエル・ノーマンは、東洋英和学校(のちの麻布高校)が経営難からキリスト教教育を放棄したことを本国カナダに書き送っていた。ダニエル牧師は1902年に(明治35)長野に赴任すると、長野市で伝道を始める前に軽井沢に土地を買い、別荘を建てていた。長野市県町の宣教師館「ノルマン館」で暮らすようになってからも、夏は例年、軽井沢で過ごしていたという。1909年(明治42)9月1日に、末っ子のハーバートが軽井沢で誕生している。

 その日の信濃毎日新聞に軽井沢に別荘を構える内外人約150戸が会議を開き、「本邦人よりは二名すなわち新渡戸・青山両博士を、また外国人側よりは三名をいずれも委員にあげ」、年々増えつづける土地や資産にたいする県税に抗議をした記事が掲載されたという。外国人代表の名前は書かれていないが、「軽井沢の村長さん」と呼ばれたダニエル・ノーマンもその一人だろうと宮原さんは推測する。避暑外国人と現地の人のあいだにさまざまな摩擦があり、ノーマン牧師は20以上にわたって「軽井沢避暑団」の問題解決に尽力したのだという。 日本人代表2名については、東京帝国大学医科大(のちの東大医学部)学長の青山胤通、もう一人は新渡戸稲造だという。青山胤通は、その娘婿が祖父の恩師であったことを少し前に知った人で、新渡戸稲造のほうは、1984年から2007年まで五千円札だった人だ。同時期に一万円札になった福沢諭吉の陰になって認知度は低かったが、お札の顔になったころかその前か、祖母が得意げに新渡戸稲造のサインか何かを私に見せてくれた記憶がある。それが何だったのか、どこに行ってしまったのか、情けないことにまったく思いだせない。 

 祖母は1926年以降に東京女子大に入学しており、その時分には学長は新渡戸から安井てつに代わっていたはずだ。国際的に活躍していた新渡戸が学生一人ひとりに何か渡したりしただろうか。新渡戸は1917年(大正6)に拓殖大学の学監に就任しており、同時期に曽祖父が同大で教えていたため、曽祖父がもらったものだった可能性もある。いずれにせよ、私にとってはお札の人以上の存在ではあった。当時の軽井沢は政財界の大物や華族、知識人などが大勢集まっていたので、さほど驚くべきことではないのかもしれないが、世の中は狭いとつくづく思う。 

 1930年代後半になるとキリスト教私立校でも「御真影」が掲げられ、拝礼が義務づけられたことや、1940年になると学校長、部課長、学校を経営する財団法人の理事長および過半数の理事を日本人とし、学校財政の外国布教本部(ミッション)からの独立を定めたことなどが『軽井沢物語』には綴られる。同年末、ダニエル・ノーマン一家は離日したが、博士号を授与されたのちも日本史研究をしていたハーバートはこの年、軽井沢で羽仁五郎から著書『明治維新』を音読してもらう学究生活を送っていたそうだ。ハーバートはIPR(太平洋問題調査会)国際事務局の研究員であったため、高木八尺、丸山眞男、大窪愿二(『日本における近代国家の成立』翻訳者)らとも交流をもったともある。 

 羽仁五郎は桐生生まれだが、説子夫人が自由学園創設者の羽仁吉一・もと子夫妻の娘で、羽仁家の祖先は長州藩士である。ついでに言えば、成瀬仁蔵の祖先は代々、吉敷毛利家の祐筆だった。うちの母は、羽仁夫妻が1903年に創刊した『婦人之友』という雑誌をかなり長いこと定期購読していたのだが、ダニエル・ノーマンの妻キャサリンが1949年(昭和24)の第43巻第2月号に寄稿していることを知って、今春、古書を入手していた。戦争中、追われるように日本を去ったにもかかわらず、キャサリン夫人は「長野にいた殆ど四十年の歳月が、私の生涯の中でも一番幸福な時だった[……]息子が二人とも今日本に居りますことを喜んでいます」と書いていた。長男のハワードは当時、関西学院大学で教えていた。じつはこの春、絵本作家の娘のなりさに120年以上の歴史をもつこの『婦人之友』誌から野鳥観察についての座談会というお仕事が舞い込んでおり、不思議な縁を感じていたためでもあった。

 『軽井沢物語』には、1941年(昭和16)8月19日にダニエル牧師の追悼会が軽井沢で開かれたときの集合写真も掲載されていた。中央で遺影を掲げるのはハーバートで、この年まだ残っていた外国人宣教師や、軽井沢避暑団団長のウィリアム・ボーリス、羽仁五郎ら日本人関係者100人近くが、まだ国民服ではなく、スーツ姿で勢揃いしたと宮原さんは書く。 軽井沢では太平洋戦争中も終戦の年までテニスやゴルフに明け暮れていた特権階級がいたそうで、この地は外交の中心にもなっていた。松代大本営の準備が進むなかで皇室の人びとは日光や伊香保、塩原に疎開し、軽井沢には貞明皇后の疎開先が用意されたという。軽井沢の常連だった近衛文麿は、「華族のトップに位置するのだから天皇の地位を守ることを自分の任務と考えて」おり、「日米開戦を避ける努力を最後まで行い、軍部に対抗してきたという自負があった」ため、自分の立場を楽観視していた。「だが、マスコミの論調は逆転した。三国同盟を結んだ首相が、敗戦後も副首相格で活動しているのはおかしい。かつての関白政治と同じつもりではないか……」と書く宮原さんの分析は鋭い。近衛文麿の死は、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げたのだという。

  終戦後は9月になると、軽井沢にもアメリカ兵が入ってきたが、なかには少年時代を軽井沢で過ごし日本語のできるアメリカ兵もいたらしい。長年、軽井沢に疎開していた仏文学者の朝吹登水子が「平和が戻ったんだわと目頭がじーんと熱くなりました」と書いている。「この時期に、軽井沢から国際的スターが出現した。画家のポール・ジャクレーである」とも、宮原さんは書く。4歳から日本に住み、浮世絵の手法で木版画を制作していたフランス人だという。あれっ、と思って確認したら案の定、赤松小三郎研究会の別の方から、少し前に頂戴した1957年刊の和綴本が、フローレンス・ウェルズが書いた『Paul Jacoulet Wood-block Artist 木版画』だった! ちらりと拝見しただけで仕舞い込んであったので、こちらもちゃんと読まねば。  

 アメリカ兵とともに、ハーバート・ノーマンも日本に駐日カナダ代表部首席として戻ってきて、途中、4カ月ほどはGHQにも勤務していた。「長野の人たちは、『ノルマンさんのせがれがえらくなって来た』と驚きの声で迎えたという」。ハーバートは1945年11月にGHQ政治顧問のJ・K・エマソンと長野視察旅行に短い旅行をしたあと、1947年6月に再び長野を訪れている。6月22日に父ダニエル追悼集会の席でハーバートが日本語で講演した冒頭部分が引用されていた。のちに彼がマッカーシズムの犠牲となり、カイロで不幸な最期を遂げたことについて、宮原さんはケンブリッジ留学中にマルクス主義に接近したことを唯一の原因として挙げていた。 

 しかし、兄ハワードが書いた『長野のノルマン』には、父ダニエルも若いころ社会主義に触れていたことを示唆する箇所があるし、そもそも原始キリスト教が共産主義とよく似ていたことを考えれば、ハーバートがマルクス主義に何かしら共感を抱いたとしても不思議ではない。しかしだからと言って、証拠もなくハーバートをソ連のスパイだと決めつけ、彼を死に追いやったのは冷戦時代の狂気としか言いようがない。『軽井沢物語』の執筆当時はベルリンの壁が崩れて間もなく、インターネットも普及していなかったので、まだその冷戦期を引きずっていたように思う。同じことは、同年に刊行された工藤美代子の『悲劇の外交官:ハーバート・ノーマンの生涯』(のちに加筆され、改題された)にも言える。

  執筆の契機になったという軽井沢の外国人墓地については、宮原さんはあまり触れておられない。カナダ・メソジスト派の宣教師として赴任していたキャンベル牧師夫妻が、1916年に就寝中に強盗に押し入られて殺害された事件について書いておられるが、この夫妻は東京の青山霊園に葬られたようだ。ダニエル牧師の後継者として長野に赴任してきたアルフレッド・ストーンは1954年青函連絡船の洞爺丸が転覆し、救命胴衣をつけていない日本人に自分が着ていたものを渡し、祈りながら波にさらわれたという。ウィキによれば、同行したYMCAの宣教師ディーン・リーパーとともに、日本人の子ども2人を救うためにみずからが犠牲になったようだ。ネット時代なら、こうした細々としたことは瞬時に検索できるが、1990年代には各地に散逸している史料を読みあさるしか、すべがなかっただろう。 

 速読した程度では、消化できない、じつに多くのことがこの本には書かれていた。宮原さんがお元気なうちに読んで、いろいろお尋ねしてみたかった。それでも、書物として残され、読むことができるのはたいへんありがたい。このような出会いを提供していただいた赤松小三郎研究会にも、大いに感謝している。
 
 宮原安春著『軽井沢物語』講談社、1991年

軽井沢旧碓氷峠見晴台のタゴール記念碑案内板(2016年撮影)

 軽井沢ショー記念礼拝堂前(2016年撮影)

(左)『婦人之友』昭和24年第43巻第2号
「開拓者精神の流れ」在カナダ カサリン・ノルマンの寄稿文が掲載されている
(右)木版画家ポール・ジャクレーの木版画という和綴本

なかに、浮世絵式に刷られた木版画のが一枚入っていた