父は私が生まれる前に家をでていき、別の家庭を築いていた。両親が正式に離婚したのは私が中学生になってからなので、小さいころは父もわりとよく家に出入りしていた。その後も定期的に食事や飲みに連れだしてくれたので、一緒に暮らさなかったわりには、父との思い出はそれなりにある。
当時、まわりに母子家庭はほとんどなかったから、私は友達とは父の話をしないよう、いつも努めていた。もともと寡黙な母はめったに父のことを話題にしなかったが、ときおり私のふとした表情に目を留めて、「そういう顔すると、パパそっくりだね」と言っていた。母は娯楽とは無縁の真面目一方の人で、姉も優等生だったので、その陰で落ちこぼれていた私は、自分はダメな父親似なんだろうとよく思っていた。父は大酒飲みのヘビースモーカーで、競馬にパチンコ好きと、母に言わせれば、諸悪の根源みたいな人だった。
父は私たち姉妹が成人するまで、毎月きちんと養育費を送ってきたし、会えばお小遣いをくれるような人だったが、すべてお金で片づけてしまう父のそんなところが私は寂しかった。実家の鴨居には、昔、父がつくった変な顔の張子のだるまが、色あせて埃をかぶったままずっと置いてあった。肉まんをつくってくれた記憶もあるが、料理好きだったという父の手料理を食べたのは、そのときだけだ。写真のキューピーは、私が2歳くらいの誕生日に父が買ってきたケーキの、バタークリームでできたドレスのなかに埋もれていたはずのものだ。いまだに捨てられずにもっているのは、父が私の誕生日を祝ってくれた証拠だったからかもしれない。「毎年、誕生日には電話をかけてきたはずだよ」と、姉に言われたけれど、あまり記憶にない。
就職活動をしていたころ、父が吐いた暴言がもとで、私はしばらく父と絶交状態になっていた。その後、自分が泥沼に入り込み、娘を抱えて生きるのに精一杯の日々がつづいたので、大人になってから父に会ったのは、ほんの数えるほどしかない。癌になって入退院を繰り返していると姉から聞いても、見舞いにも行かなかった。
そんな私が父に連絡するのは、自分の訳書がでたときくらいだった。本を送ると、父はかならず電話をかけてきて、「読みはじめたけど、途中でやめてしまった」とか、「三度読んだけど、よくわからなかった」とか、がっかりするような感想を言っていた。
いよいよ余命一ヵ月と宣告されたと聞き、私もようやく重い腰をあげて娘を連れて父の家に見舞いに行った。「一番縁の薄かった親子が、こうして会いにきてくれた」と、すっかりやつれて、おじいちゃんになっていた父はうれしそうだった。
この日、弟も都合をつけて会いにきてくれた。一時期、同じ大学に通っていたこともありながら、その後20数年間、言葉を交わすこともなかった弟と、父の見舞い後、堰を切ったように話を始めた。そこで初めて、私の知らなかった父の意外な側面を教えられた。
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