キレットからの登りがどの程度の難所かは、ガイドブックを読めばきちんと書いてある。ろくに調べもせずに勝手に登ったのは私たちなのだ。どんなリスクがあるのか前もって把握し、それでも行くのかと自問すべきだった。この山行で親は当てにならないと悟った娘は、それ以降はふりがなを振ってもらいながら、自分でガイドブックを読み、地形図を丹念に調べるようになった。
個人的な山登りの体験と、今回の震災をくらべることはできないと思うが、被災地がいずれも危険と隣り合わせで暮らしていたことを考えると、どこか似ているような気がする。生き延びるためには結局、自分で調べ、判断し、行動するしかないのだ。昔から津波被害に遭ってきた三陸地方では、「津波てんでんこ」という教えを子供たちに徹底して教えていたため、下校中の小学生が自分たちの判断で高台を目指して一目散に走り、おかげで助かったという記事を何度か目にした。結局、いざとなれば自分の身は自分で守るしかない。それでも、自然が相手の場合は運しだいだ。ほんの数分、数秒の差で命を落とした人は大勢いるのだろう。自分はもういいから、おまえだけが逃げろと言って、波にのまれていったお年寄りもいたという。大津波であれだけ被害を受けても、漁師たちはまた海にでていく。厳しい自然のなかで生き抜くというのは、こういうことを言うのだろう。
一方、日常生活を唐突に奪われ、最低限の衣食住をあてがわれ、プライバシーのない生活を長期にわたって余儀なくされている人たちはストレスをためている。こうした状態が長引けは、体調を崩して落ち込み、理性を失って八つ当たりしたくなるのは仕方がない。同じことは、震災以来、緊張の連続を強いられている現場で働くさまざまな人びとや、政府や報道関係者などにも言える。差し迫った危険が少なくなったいまは、抑えていた不満が方々から一気に吹きでているように見える。
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