同質な人ばかりで構成された集団というのは、無意識のうちに外部の人間を締めだす。隔離された世界に特定の条件を満たす人だけが住める社会は、犯罪が横行するいまの世の中では、一見、治安のよい楽園のように思えるかもしれないが、外の雑多な世界に暮らす人びとの目にはどう映るだろうか。こういう集団は得てして、自分たちの身分や資格を明確にする条件、たとえばマンションの住人かどうかを過度に意識するようになる。
閉鎖的な社会では、その構成員に画一的な規範や制約が課されがちでもある。「みんなちがって、みんないい」どころか、理想像はたいがい一つしかなく、子供のいない人はもちろん、共働きで子供を保育園に預けている人ですら、その輪には入りにくいだろう。輪のなかで愛想よく笑みをたたえている人も、内心は子供の教育からご主人の出世ぶりまであれこれ競い合ったりしていて、案外、窮屈な世界に違いない。
規模は違うけれども、同じことは民族や国のような、より大きな集団に関しても言える。特定の宗教や言語、文化などをもとに一つの民族として括られた集団は、その条件である信仰心や愛国心などを重視する。人をまずそうした観点から区別し差別して、集団の権利を主張するようになるのだ。その正当性を主張するために昔は神話をつくり、いまは法律を盾にする。こうした集団は、確かに外敵から自分たちの利益を守るうえでは好都合かもしれない。でも、しょせん人間社会全体にいちじるしい格差があるのだ。こうした気圧差は、少なければ心地よいそよ風になるけれど、圧力が高まれば犯罪という隙間風になって脆い場所に吹き込む。ときには内戦のような暴風にもなるだろう。内部の人間も外部の人間も、結局は住みよい土地や資源をめぐって生存競争をしているに過ぎないのだから。
このたび刊行されるアマルティア・センの『アイデンティティと暴力』は、人間のコミュニティに関するこうしたさまざまな問題をとりあげたものだ。「住民が本能的に一致団結して、お互いのためにすばらしい活動ができるよく融和したコミュニティが、よそから移り住んできた移民の家の窓には煉瓦を投げ込むコミュニティにも同時になりうるのだ。排他性がもたらす災難は、一体性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである」と、センは言う。
人間が所属するコミュニティの一員であることを極端に重視するようになり、それがその人の唯一のアイデンティティになると、本来は多様であるはずの個人は画一化された枠組みのなかに埋没し、そのアイデンティティを共有しない集団とのあいだには敵対関係が生まれる。資源が乏しくなり、生きることが難しくなればなるほど、こうした傾向は顕著になる。過度の自由主義への批判から共同体主義が脚光を浴びている現在において、そうした動きが偏狭なナショナリズムに発展することを危惧した書と言えるだろう。サンデル教授の本ばかり読まずに、ぜひこの本も読んでみて欲しい。
『アイデンティティと暴力――運命は幻想である』
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