ある日、裏庭全体が水浸しになっていて驚いた。「エリゲイション」だと教えられたが、当時の私の語彙にそんな言葉は含まれておらず、だいぶあとになってようやくそれがirrigation(灌漑)であることがわかった。リオ・グランデ川から定期的に取水して溝に流し、各戸の水門を開けておくことで、庭が浸る程度に水が流れ込む仕組みになっていたようだ。なぜそんなことをするのか、当時の私はよく理解していなかったが、エルパソの年間降水量は240ミリ程度しかない。郊外も含めると人口80万人のこの都市は、リオ・グランデとなって600キロほど先のコロラドやニューメキシコ北部から流れてくる雪解け水のほかは、地下水に頼るしかなく、年々、後者の比率が上がっているようだ。
昨年から半年以上にわたって翻訳に取り組んだブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』が先月、河出書房新社から刊行された。昨年は身近なところで自然災害が多発したこともあって、否応なしに水の問題を考えさせられた。人間は水がなければ生きられないが、水が多すぎてもやはり生きられない。おおむね適度な雨が一年を通して降るという、日本人にとってはごく当たり前のことが、世界のどこを見回しても考えられないほどの贅沢であることを痛感させられたのだ。日本の年間降水量は1700ミリ前後で、世界平均の1.7倍あるだけでなく、雨や雪の多くは身近な山に降り、一時的に積雪となったり、その土中で溜められたりして、やがてろ過されてきれいな湧水となって流れでてくる。
水問題と言うと、飲料水の話だと思われがちだが、そうではない。地球上の淡水の大半は農業に使用されている。短い用水路を引くだけで水がいくらでも手に入るからこそ、日本では米づくりが可能なのだ。いまは人件費、耕作機械による大規模生産や政府補助金の有無など、経済的な要因だけが世界の農産物の価格を左右しているが、近い将来、人口増加と温暖化によって水資源がますます希少になれば、水が容易に手に入るかどうかが食料の価格どころか、生産の可否までを決めるようになるだろう。
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