もちろん、いまの発展がいつまでもつづき、将来もずっと安泰だと思っているわけでもない。「日本を取り戻す」と言って選挙に圧勝した自民党の第一声は「経済を取り戻す」だったが、経済がすべてのキーワードだった時代はとうに終わっている。自分たちの置かれた環境のなかで持続可能な方向に進まない限り、この先は破綻の道を歩むことは明らかだ。環境収容力を超えたために滅亡した文明は、歴史上いくらでもある。公共事業に集中投資し、日銀に金融緩和を実施させたところで、一時的なカンフル剤で終わるに違いない。
昨秋は娘が一時帰国していたためにあれこれ忙しく、締め切りにも追われていたため、暮れには珍しくひどい風邪をひいた。それでも、2012年12月21日は何ごともなく過ぎたし、冬至を境に日没点は少しずつまた北へ戻ってきている。もともと古代マヤの予言は、5200年間の“太陽”と呼ばれる一時代が終わることを意味していたに過ぎない。2012年の終末を信じて大勢の信者を集めていた教団や核シェルターに立てこもっていた人たちは、いまごろどうしていることだろう。
年末年始は今年も船橋の母のところへ行って数日を過ごすことができた。母はとくに凝ったおせち料理をつくるわけでもないが、いまも黒豆、きんとん、何種類かの煮物、ごまめくらいは用意し、ベランダで育てている春菊をお雑煮に入れてくれた。暇さえあれば台所に立ち、あちこちを掃除して回っている母は、風呂の残り湯をたらいに汲んで洗濯機に移していた。「こうやって腰を鍛えているのよ」と得意げな母に、「バケツのほうがまだ楽じゃない?」と提案してみた。ポンプなど使う気はさらさらないらしい。
元日には近所を十数キロほど散歩した。以前、私が住んでいた場所は分譲住宅が建ち並ぶ新しい街に変わり、記憶では田んぼだった場所は荒地になり、どこもかしこも宅地化が進んでいたが、高齢の母がまだ自分の足でこれだけの距離を歩けるということが、私にはなんともありがたかった。大晦日の日の入りも初日の出も見逃したが、元日の夕方、近所の高層住宅の最上階に母と上り、沈む夕日と富士山を眺めた。意外なことに、船橋のこんな場所から富士山とスカイツリーの両方が見えた。階段の踊り場に写真を撮りにきていた近所のおばさんとひとしきりしゃべり込みながら、オレンジ色に染まる空を眺めた。
将来はばら色に見えないし、現実の暮らしも厳しい。でも、とりあえず健康で自立した生活が送れ、日々のちょっとしたことに感動できれば、それだけで充分に幸せだ。極端な悲観論やその逆の楽観論には惑わされず、毎日を大切に生きていきたい。本年もよろしくお願いいたします。
新しい分譲住宅(下)
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