一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。
江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16~18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか?
『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。
稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?
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