その後、旧東海道を探索したり、アオバトを見に行ったり、大磯宿場祭りで「こまたん」のあおばと屋にお世話になったりで、大磯に行くたびに、駅前にあるエリザベス・サンダース・ホーム、というよりステパノ学園の前を通ることになった。なにしろ、旧岩崎邸のこの広大な一画はちょっとした森になっていて、夏場に丹沢から照ヶ崎海岸に海水を飲みに飛来するアオバトの、一時休憩地になっているのだ。それでも、これまでは外部の人間がふらりと立ち寄れる場所ではなかったので、なかを見たことはなかった。
先日、『GHQと戦った女 澤田美喜』(新潮社)という青木富貴子さんの新刊を図書館で借りて読んだ。これまでに彼女の作品は、『アメリアを探せ』、『731』の2冊しか読んだことがないが、どちらもよく調べあげた力作だった。今回の本では岩崎彌太郎の孫娘としての、澤田美喜さんの生い立ちに多くのページが割かれている。三菱商会は1873年に設立されてから翌年の台湾出兵、および1877年の西南戦争まで、わずか4年のあいだに巨万の富を蓄えた。彼女が生まれたころは六義園も清澄庭園も岩崎家の邸宅で、美喜さんは幼いころ津田梅子に英語を学び、外交官の妻として海外に暮らしたあいだにはパール・バック、ジョゼフィン・ベイカー、マリー・ローランサンなどとも交流があったという。
しかし、本書が青木さんの作品らしくおもしろくなるのは、「清里の父」ポール・ラッシュとの交友関係からだろう。二人は1935年に聖路加病院を通じて知り合ったそうだが、戦後にGHQの一員として再来日したラッシュは、麹町一番町にあった澤田家の邸宅を接収して設けられた民間諜報局(CIS)で東京裁判にかける戦争犯罪人に関する情報収集をしていた。当時、ここで働いていた日系情報将校をインタビューし、アメリカの国立公文書館で資料を探す調査は、ニューヨーク在住の著者ならではのことだ。本書のインタビューの多くは10年近く前のもので、当時すでに高齢だった証言者の多くはもう他界しているか、記憶が不確かになっているだろうから、そういう意味でも貴重な資料だ。
澤田美喜さんについていろいろ読んだら、突然、大磯に行きたくなった。敷地内にある澤田美喜記念館は、昨年からスタッフが拡充されて一般人も気軽に入れるようになっていた。まずは照ヶ崎海岸まで下りて、朝の潮風とアオバトの乱舞をしばらく堪能し、お世話になっているアヴィアントのパン屋さんにも立ち寄ってから、いざ開かれた門のなかへ。館内には、美喜さんが集めた隠れキリシタン関係の品々をはじめ、彼女の遺品や写真がところ狭しと並べられていた。幸い、私たちのほかに来館者がいなかったため、丁寧な説明を受けながらじっくり眺めて回り、隠されたキリスト像が反射光のなかで現われる魔鏡も見せていただいた。美喜さんはなぜエリザベス・サンダース・ホームにここまで心血を注いだのかという最大のテーマに、戦争で巨万の富を築いた岩崎彌太郎の孫として生まれ、美人の母に似ず、「いごっそう」の祖父と顔も性格もそっくりで女彌太郎と言われた彼女なりに、戦争の後始末をつけたかったのではないか、と青木さんは推論していた。美喜さんの長男は、「占領軍に恥をかかせてやろう」としたのだと考えていたらしい。記念館で美喜さんが蒐集した多数の聖母子像を眺めているうちに、彼女はこの姿に自分を重ねていたに違いないと思えてきた。岩崎家に生まれ育ったことは宿命で変えられない。しかし、そのなかでただ華やかな外交官の妻として、恵まれた家庭の母として、期待されたとおりの人生を送るのではなく、自分が支えなければ消えてしまうたくさんの幼い命を育てあげることに、いわば天命を見出していたのではないだろうか。大磯のホームはいまでは戦争の落とし子たちの命を救う役目は終わり、さまざまな事情から親元で暮らせない子供たちの生活の場となっているそうだ。「岩崎のお嬢さん」が思いつきで始めた事業は、戦後70年を経ても大磯の海と森とアオバトと、彼女の遺志を受け継ぐ人びとによって守られていた。
照ヶ崎海岸のアオバト
澤田美喜記念館の鐘
記念館の二階の礼拝堂
このトンネルの先に
エリザベス・サンダース・ホームがある
0 件のコメント:
コメントを投稿