2016年8月31日水曜日

長崎旅行

 7月末の小旅行の続編で恐縮だが、佐賀のあと2日半ほど訪ねた長崎でも思わぬ収穫があったので、忘れないように書いておきたい。以前にも書いたので、ご記憶の方もあるかもしれないが、私の母方の曽祖父が長崎の人だった。といっても養子に入ったので、長崎の家については謎だらけだった。今回の「調査旅行」の目的は、祖母がもっていた戊辰戦争時の掛け軸に書かれていた、長崎振遠隊の山口亀三郎との関係を探り、祖母の出生地を訪ねることだった。  

 箱館海戦で戦死した亀三郎は、前年暮れに廃寺にされた大徳寺跡地の大楠神社に葬られた。この墳墓地は梅ヶ崎招魂社と改名され、J. R. ブラックが発行した『ファー・イースト』紙にも紹介された。1939年に全国の招魂社が護国神社と改名され、梅ヶ崎護国神社となったあと、42年に少し北の長崎縣護國神社に移転した。ところが、移転先は爆心地に近かったために大破し、振遠隊関連で現存するものは、仁田佐古小学校裏の墳墓地内の振遠隊戦士遺髪碑と、大徳寺公園にある梅ヶ崎招魂社跡の碑くらいしかない。19歳で箱館湾に沈んだ亀三郎は、英霊の先駆けの忠魂というわけだが、死後も翻弄されたようだ。民家のあいだの狭い階段を上って墓地にたどり着くと、あいにく門が施錠されていた。諦めきれず近くの地区センターに行ったところ、幸いにも鍵を貸してもらえた。墓地内は草木が生い茂り、碑の前まで近づけなかったが、「箱館之役我隊乗朝陽艦」の文字や、明治元年にこの部隊を派遣した「知府澤公」の文字は見えた。長崎府知事の澤宜嘉は文久3(1863)年に「七卿落ち」した1人だ。彼はすぐ外務卿に栄転したので、亀三郎への通達では府知事名は清原朝臣となっていた。  

 翌日、長崎歴史文化博物館の資料室で振遠隊について検索してみると、山口誠一という名前が目に留まった。娘が高校生のときに調べたノートにあった名前なので、閲覧させてもらった。「振遠隊人別山口誠一と葡アントニー・ロレイロ混雑一件、明治3年」と題された文書を開いてみると、密封されていた明治初期の空気が漂いだしたかのようだった。山口誠一自筆の文書は、達筆過ぎて読めなかったが、「元振遠隊山口順太郎祖父、山口誠一」という署名は読み取れた。順太郎という名は通達に書かれていたので、山口誠一の息子が亀三郎で、享年19歳の彼に順太郎という息子がいたということか。この文書には、英文の書類も同封されていた。これは判読できたので少し調べてみると、書き手はなんとデント商会で『長崎ガゼット』紙を発行していたアントニオ・ロウレイロだった。「混雑一件」は、彼のもとで働いていた誠一の弟に、長崎在住の商社名をカタカナで版木か何かに彫らせる仕事を与えたところ、納期を守らずトラブルになった挙句に、誠一が侍を連れて乗り込んできて暴言を吐いたという事件だった! 山口誠一は血気盛んなお方だったようだ。  

 祖母については、死亡時に取り寄せた戸籍があったはずなのだが、旅行前に捜してもらったものの見つからず、諦め半分で長崎市役所に立ち寄ってみた。私と祖母の関係を証明する書類一つもたず、窓口で恐る恐る尋ねたところ、担当者がそれは熱心に調べてくれ、祖母や曾祖父母の生年・死亡日、養母の名前などを伝えると、方々の役所に電話で確認し、複雑な経緯が切り貼りされた除籍謄本を二時間かけてだしてくれた。おかげで、祖母の本籍が今魚町だったことや、曾祖父の熊本の実家、曾祖母の下関の実家なども判明した。今魚町という町名はもはやないが、市職員の話と博物館で見た古地図から、魚の町付近だろうと見当をつけて行ってみると、江崎べっ甲という江戸時代からの老舗が見つかった。ゼロの桁が多すぎてお土産は買えなかったが、店員に聞いてみたら、やはりかつては今魚町と呼ばれていたそうで、古い看板にもそう書かれていた。大津事件前に、皇太子だったニコライ2世が来店したこともあり、その記念写真を店主の親戚の上野彦馬が撮影していた。彦馬は私の祖母が生まれたときにはすでに亡くなっているが、祖母の幼少期の一連の写真は、養家を継いだ証として、彦馬の後継者に撮影されたのかもしれない。長崎には当時、多くのロシア人が住んでいたため、江崎べっ甲の表看板にはロシア語も書かれている。曽祖父がロシア語を学んだ理由がようやく見えてきた気がした。  

 今魚町は、多数の石橋が架かる中島川の中心地にあり、偶然にも私はその前日、袋橋の欄干に座って眼鏡橋をスケッチしていた。もう一度、川沿いを歩いた際に、ふと見た案内板に私の目は釘付けになった。原爆がもともと小倉に落とされる予定だったことは知っていたが、長崎市の投下照準点は、袋橋の一つ手前の常盤橋から賑橋だったのだ。ところが、雲に覆われて目視できず、雲の切れ目から見えた浦上の軍需工場が目標にされたという。  

 長崎滞在の最後の日は朝から浦上へ行った。幕末に長崎にきたフランスのプティジャン神父が、ここで隠れキリシタンに出会った「信徒発見」は、奇跡として世界中で歓迎された。だが、迫害は明治になって澤宣嘉府知事のもとで過酷さを増し、1873年までに662人が命を落とした。1945年8月9日には、爆心地から半キロの距離にあった浦上天主堂は瞬時に倒壊し、2人の神父と18人の信者が下敷きになった。炎天下の浦上地区を歩きながら、上空の雲の切れ目のせいで7万4千人と言われる人びとが命を奪われた不条理を味わわされた。

 佐古墳墓地

『ファー・イースト』に掲載された梅ヶ崎招魂社

長崎大学所蔵の古写真から墓碑に山口亀三郎の名が読めました

 祖母がもっていた長崎符からの通達の巻物

 江崎べっ甲

 明治40年の長崎市地図

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