日本の磁器の始まりについては、秀吉の朝鮮出兵の際に強制連行されてきた朝鮮人陶工によって先端技術が日本に流出した結果、とよく言われる。しかし、有田の陶山神社には、有田焼の祖とされる朝鮮人陶工の李参平が、彼を連れ帰った佐賀藩主である鍋島直茂と並んで相殿神として祀られている。李参平の墓は、日本の磁器発祥の地である天狗谷窯近くの白川共同墓地で半世紀ほど前に見つかっている。ご子孫はいまも有田で磁器を製作している。強制連行という言葉から連想されるものと、神として祀る行為には、どうもギャップがあるように思えて、少しばかり日本の磁器の歴史を調べてみた。
『多久市史』には、次のような経緯が書かれていた。朝鮮出兵の折に鍋島直茂軍が道に迷い、道案内を頼んだ一人が李参平で、そのまま朝鮮に残せば祖国を裏切ったかどで迫害を受けるだろうと、直茂の家臣の多久安順が船で連れ帰った。安順が朝鮮での職業を尋ねると、焼物をしていたと答えたため、試しに焼かせてみたところ、かなりの出来だった。この最初の試し焼きの場所は、父の実家のそばの西の原の唐人古場窯らしい。しかし、多久領内では思い通りの土が見つからず、ようやく有田で良質の磁石を探し当て、有田皿山の基礎を築いたという。もっとも、この記述の出典である「金ヶ江三兵衛由緒書」は19世紀初めに書かれたもので、実際には李参平の名前すら定かではないようだ。
朝鮮出兵に際して、朝鮮から大勢の人が連行されたのは残念ながら事実で、そこに多くの技術者が含まれ、それによって日本の産業が大いに発展したことも間違いない。萩焼も薩摩焼も朝鮮人陶工が興した産業だった。加藤清正が連れ帰り、細川忠興のもとで上野焼と高田焼を始めた金尊楷にいたっては、産業スパイよろしく、一時帰国して朝鮮青磁の技法を習得して再来日している。だが、各地の窯のなかで、早期に磁器生産に漕ぎつけられたのは、有田のほかは、平戸藩主松浦鎮信が連れ帰った巨関が始めた三河内焼と、大村藩主大村喜前が連れ帰った李祐慶による波佐見焼しかない。何が違ったのだろうか。関連資料をざっと読んだだけだが、これには「岸岳崩れ」が関係しているようだ。
朝鮮出兵では、肥前名護屋の勝雄岳に本陣として巨大な城が築かれ、諸国から何万もの将兵が集まってきたが、ここは松浦党の武将である波多親の居城があった場所だった。「海の武士団」松浦党の実態は、中国・台湾・琉球・朝鮮半島・九州一帯の海を支配した多国籍の倭寇の一派であり、略奪まがいの交易に従事していた。波多氏は1580年代に、多数の李朝の陶工を連れ帰り、岸岳の山麓に見張り役兼ねた七つの窯を築かせ、彼らの意のままに作陶することを奨励していた。これが唐津焼の始まりだが、古唐津の歴史はさらに30年ほどさかのぼるようだ。天下統一を目指した秀吉にとって波多氏のような海賊大名は目障りな存在だった。何かと難癖をつけて、朝鮮出兵後に波多氏の所領を没収した秀吉は、利休門下の茶人だった美濃出身の寵臣、寺沢広高にその所領を与えた。岸岳山麓の朝鮮陶工たちは肥前の各地に離散し、それを「岸岳崩れ」と呼ぶ。彼らが新たに有田、三河内、波佐見などで窯を築いたところへ、李参平などが加わったため、肥前では一気に産業規模の磁器生産が始まったのだ。寺沢広高ももちろん唐津焼を再興し、彼を通して、美濃焼にも新しい技術が伝わったという。唐津の叔父から聞いた郷土史がようやく理解できた気がする。
現代の感覚では、日本と韓国、中国といった国と国との関係でものごとを考えがちだ。しかし、統一国家としての日本という意識がまだなく、九州が征伐すべき対象であった時代には、九州諸国の水軍や海賊にしてみれば、対岸の朝鮮半島南部は、秀吉の名古屋・大阪よりもよほど近い存在だったのだ。李朝の陶工の技術は当時の世界最先端にあったわけであり、かたや日本ではまだ釉薬を使う陶器の生産もおぼつかない状況だった。強制連行して働かせたというよりは、朝鮮陶工はむしろ明治初期のお雇い外国人のような存在だったかもしれない。陶磁器はいまや趣味の工芸品のような存在になりつつあるが、磁器生産は本格的な鉱業、林業、土を粉砕する水車場や高温の登り窯、呉須などを輸入する交易体制、製品の輸送・販売体制などを必要とする一大産業だ。窯業の栄えた九州が、幕末にいち早く産業化したのは当然のことだったのである。
陶山神社
泉山磁石場
李参平の墓
寺沢広高の墓所
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