2019年1月2日水曜日

「明細」の解読

 年末年始、つかの間を母のところで過ごした。締め切りを年明けまで延ばしていただいた仕事がある手前、本来は寸暇を惜しんで見直しに励むべきところだが、正月くらいは息抜きさせてもらおうと、ずっとお預けにしていたことを楽しんだ。昨秋、上田市立博物館を訪ね、そこで閲覧させてもらった史料の解読だ。

 上田市立博物館に上田藩士の格禄賞罰の記録として「明細」という文書があることを、赤松小三郎研究会主催の尾崎行也先生の講演会で教わり、秋に仕事の合間を縫って日帰りで行って見せていただいたのだ。同館では閲覧できる史料は10点に限られるのだが、膨大なリストから必要な史料を探しだすのは容易ではない。遠方のため特別扱いということで20点選ばせていただいたが、現場で索引の巻を見たら巻が家ごとに分かれていることが判明し、結局、その場で入れ替えてもらった。

 石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから、事務室の片隅で寛文期の分限帳など、数百年は昔の古文書を恐る恐る開いた。和紙の保存状態はかなりよく、雁皮のような紙に書かれたものはとくに、虫食い一つ見当たらなかった。ページをめくって祖先と思しき人の名前を見つけるたびに、古いコンデジで撮影させてもらった。「明細」そのものは閲覧できたのは原本ではなく、マイクロフィルムの紙焼きを閉じた分厚いものだった。後日、撮影した大量の画像を多少整理はしたものの、パソコンの画面で拡大してみたところで、ミミズの這ったような筆文字から私が読み取れるのは年代と若干の固有名詞、それにいくつかの文字程度で、どれだけ眺めても肝心なことはわからない。

 ほんの150年までは、文字の読める人ならば基本的に読めたはずの崩し字だが、現代人にはある意味でヒエログリフよりも難解だ。そもそもどこに切れ目があるのかわからない。ネット上にあるくずし字解読ソフトや変体仮名の一覧などはそれなりに活用してみたものの、私がこの文書を読めるようになるには、シャンポリオンやジョージ・スミスのような才能と根気が必要だ。早々に諦め、フェイスブックで知り合い、まだお会いしたことすらないお友達で、以前にもいくつかの史料を解読してくださった方のご好意にすがることにした。

 今回、活字にしていただいたものを頼りに筆文字を一応はたどってみたが、よくまあこれを読んでくださったと、驚かされることばかりだった。「明細」に書かれた祖先の「初代」は分限帳でも同一人物らしき人が確認でき、そちらはかなり楷書に近い字だったので、てっきり「有右馮」かそれに近い名前だろうと思っていたが、「有右衛門」であったらしい。右衛門のような一般的な名前の崩し字は、独特のセットになっていたのだ。わずかな時間では全文の読みくらべは不可能なので、まずは活字にしていただいた内容の解読に専念した。それすら、理解できたのは半分くらいだろうか。 「明細」に記されたうちの祖先の項は元禄12(1699)年から始まっていたが、実際には宝暦4(1754)年生まれの4代目の時代に編纂が始まったと思われる。4代目のこの生年ですら、「戌三拾四歳」というわずかな文字を手掛かりに、FB友の方が編纂時から逆算して、干支から推測してくださったようだ。

「明細」には藩士に登用された年月は書かれているが、生年の記載はなく、藩士で亡くなった没年しか書かれていないからだ。古文書の解読には相当な推理力が必要だ。そのためか、初代から3代目までは記述が少なく、有右衛門は元禄12年に中小姓で召出され「馬術申立」であったことしかわからない。それでも、私が最初に見つけた幕末の祖先は上田藩の馬役であったし、「明細」に書かれた祖先はすべて馬関係だったので、この初代が馬術関連の専門職として登用されたのは間違いないだろう。門倉という名字や言い伝えから、元々の祖先は上田ではなく、北関東の出身だったと思われる。明治期に曽祖父が各地の墓を整理して、新たに下町のお寺につくったと伝わる墓には、天和から元禄13年までの古い墓石が数基あるので、これらは上田藩に入る前にいた土地にあったのだろう。

  記述が詳しくなる4代目以降は、「賞」より「罰」を食らうことのほうが多かったと思われ、たびたび「不埒」や「不身持」で「御叱り」を受けて「閉門」、「閉戸」の処分を受けていた。数日から数十日間の蟄居を命じられていたのだ。4代目は気の毒に、倅の不身持で家老に呼びだされた際に「途中より差塞」(ふさがり)、翌日病死していた。母に伝えると、「読んでくださった方はさぞかしおかしかっただろうね」と苦笑していた。私の祖父などもいたずら坊主だったらしく、小学校の貴重なピアノに自分の名前を彫り、曽祖母が学校から呼びだしを食らったそうだ。一生消えない汚点だと先生からさんざん叱られたのに、「関東大震災でそのピアノは燃えちまったんだ」と後年、わが子たちに自慢していたというから、これもDNAなのかもしれない。

 代々の祖先はおおむね八石三人扶持など、かなりの薄給取りで、中小姓止まりだったが、それとは別に家督として七拾石ほどが相続されていたようだ。幕末の6代目伝次郎も、15歳で組外御徒士格となってまもなく「猥に在町え打越、為酒食」したほか、「口論」や「御政治等批判」など「身分不相応」なことをしてお叱りを受けているが、後年は馬術の「教授骨折」の功で「御酒吸物被下」ことが多くなった。彼は徒士頭格になり獨礼席まで昇格したので、出世頭だったようだ。それにしても、御酒はともかく「吸物」とは、えらくささやかな褒美に思えるが、これはとくに上田藩だけの習慣ではないようだ。年末にプリントアウトした文章を娘にちらりと見せたところ、「あっ、伝次郎さん、骨折している!」と言うのには笑った。古文書は難しい。

 伝次郎が元治元(1864)年9月に「西洋馬具御買入并馬療為取調、折々横浜表え罷越、蘭人え問合候様被仰付」という記述は重要かもしれない。従来、上田関係の資料は『上田市史』の記載を引いて万延元(1860)年にイギリスの公使館付騎馬護衛隊長のアプリンから西洋馬術を学んだとしていたが、アプリンの来日は1861年11月で、それ以前に短期間来日したとしても馬術を学ぶ余裕はなかったはずなので、元治元年になってからおそらく上田の生糸商人のつてなども使って、伝次郎がアプリンに接近したという私の当初の推測のほうが、結局は正しかったかもしれない。 「明細」から判明した大きな収穫は、7代目とされる正体不明の庄次郎が養子で、私の曽祖父が生まれたと推測される明治2年に「不熟に付」という言い訳のような理由で離縁されていたことだ。このため、曽祖父は伝次郎の年取ってからの息子という可能性が高まった。私の先祖探しも、おかげさまでだいぶ進展した気がする。今年こそ、この記録をまとめる時間が欲しい。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 「明細」

 幕末の分限帳

 上田紬

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