馬と言えばサラブレッドを思い浮かべるいまの日本人には、イングランドでも16世紀までほとんどの馬が小型であり、日本にいたってはわずか150年前までポニーに分類されるような馬しかいなかったことなど想像しにくい。いま世界にいる馬はほぼすべて、なんらかのかたちで人手を介して人間の都合で品種改良されてきたため、ラスコーやペシュメルルの壁画に描かれた野生の馬とは異なっている。ターパンと呼ばれるユーラシア大陸にいた野生種はすでに絶滅し、モウコノウマという亜種がかろうじて残っている。日本の馬は江戸時代まで積極的に選択して育種せず、自然に繁殖させていたことや、栄養価の高い飼い葉ではなく、周囲の野草を食べさせていたことなどから、古来の形質を残し、環境ごとの特徴をもつ馬になったようだ。肩までの高さが170cmにもなるサラブレッドにくらべると、わずかに残る日本在来馬は体高100cm程度の野間馬から130cm程度の木曽馬や道産子まで、いずれもかなり小型である。とかく馬格だけが注目されがちだが、頭が大きく胴が長いといった骨格上の特徴のほか、毛色にも特色があるらしい。一般の馬の顔や脚によくある白い模様は、在来馬ではまず見られない。在来馬には鰻線と呼ばれる背中の濃い線や、逆立ったたてがみなど、洞窟壁画の野生馬に見られる古い特色を残す個体もいる。
これらの在来馬は、氷河期に日本列島にいた野生馬が家畜化されたわけではなく、野生馬が絶滅したのちに朝鮮半島経由でもち込まれた家畜種だった。加茂氏の本が書かれた当時は、縄文や弥生の遺構から馬の骨が出土したこともあって、大陸から馬がもち込まれた時期はかなり古いと考えられていたが、ずっと後世の馬の骨が混入していたことが近年、科学的に証明された。したがって、3世紀末に魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれたとおり、それまで日本人が牛馬を使うことはなかったと、いまでは考えられている。4世後半になると、甲府市の塩部遺跡から馬の歯が見つかっている。『日本書紀』には応神天皇15年(在位期間は不明)に百済王が阿直岐を遣わし良馬2匹を貢いだとあり、『古事記』にも応神天皇の時代に照古王(近肖古王、在位346-375年)から雌雄の馬が阿知吉師につけて献上されたと記されている。阿直岐は、東漢氏の祖とされる阿知使主と同一人物とも言われる。この氏族は織物工芸に長けていたため、漢の字を「あや」と読ませ、やまとのあやうじと呼ばれるようになった技術者集団だった。その子孫が坂上田村麻呂、つまり最初の征夷大将軍なのだ。5世紀に入ると馬具や馬埴輪、馬の骨などが各地で出土する。
記紀には、スサノオが天の斑馬を逆剝ぎにして機織り小屋に投げ込む話や、保食神が死んだあと、その頭の頂が牛、馬になっていたことなどが書かれている。いくら神話とはいえ、存在すら知らない動物が登場するだろうか? となると、これらの神話も4世紀以降にできたということなのか。斑馬が文字どおり斑紋のある馬だとすれば、モウコノウマを家畜化しただけでなく、ターパンを家畜化した馬と掛け合わされていた可能性も高いようだ。「天の」という形容は、前漢時代に張騫がフェルガナからもち帰った汗血馬を天馬と呼んだことを思いださせる。秦時代の馬は、始皇帝の騎馬俑や銅車馬の馬を見る限り、かなりずんぐりして、たてがみが逆立ち、種子島にいたウシウマのように尾が棒状に見える馬だが、甘粛省の雷台漢墓から出土した有名な「馬踏飛燕」をはじめとする青銅の馬は、顔や脚、腹部の引き締まった、たてがみの垂れた馬なのだ。製作者の出身や技術の違いは当然あるだろうが、傍目にはかなり違う馬に見える。漢時代に品種改良された馬の子孫が、数百年後に日本まで渡ってきたかどうかは不明だが、後漢霊帝の末裔を自称した東漢氏にとって、天馬が大きな意味をもっていた可能性は高そうだ。在来馬のなかでは大きい木曽馬に、漢代に改良された馬を起源とするという説があるのは興味深い。塩部遺跡の歯のDNA解析ができたら、何か見えてくるかもしれない。
戦闘用に訓練されていなかった在来馬の大半は、日清・日露戦争後に軍馬改良の目的で30年にわたって実施された馬政計画で、オスは去勢され、メスは輸入された種馬と交配させられ、やがて消滅していった。私の祖先は明治初期に軍馬買弁のために鹿児島まで行ったらしいので、一連の品種改良にいくらかは加担していたかもしれない。
いろいろ調べ始めると止まらなくなるが、次の仕事のためにそろそろ頭を切り替えなければならない。ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
鳥獣戯画展で見た高山寺の馬像
BC4世紀ごろの騎馬俑と秦の銅車馬
読みあさった本の一部
河出書房新社
東郷えりか訳
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