すでに何度か書いているが、このところずっと取り組んでいる本は、民主主義とは何か、平等とは何かという、きわめて根源的なことを深く追究している作品である。民主主義の危機が叫ばれるいま、世界が直面している本当の問題を鋭く描く本だと思うが、まだ自分の頭のなかで整理がつかない。原始時代から始まる壮大な思想史の作品を訳すのは、哲学の知識に乏しい私にはかなり荷が重い。
ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』も読んだことがなく、中江兆民をほんの少しかじった際に、日本国憲法の公共の福祉の問題等を認識した程度でしかない。今回、彼の思想をようやく理解するなかで、ふと思いだしたのが、小学生のころに愛読したサザエさんの漫画だった。「にんげんよ、たまにはしぜんにかえれ!!」と地面に大の字になるサザエさんを遠巻きに見ている人たちが、変死体と誤解する、というオチのもので、当時はもちろん、さっぱり意味がわからなかった。のちに、「自然に帰れ」がルソーと関連づけられる言葉だとは習った気がするが、人間が文明化し、堕落する以前の状態を「自然」と呼んだことなどは、よく理解していなかった。
そうか、あのサザエさんはルソーだったんだ、と思ったら、無性にその漫画を読み返したくなった。記憶のなかの表紙を頼りに画像検索で巻数を確認し、横浜市の図書館から借りてみた。うちでは週刊誌や月刊誌の漫画は買ってもらえなかったが、サザエさんの単行本だけは母が2冊買ってくれたので、私はよくわからないまま、繰り返しそれを読んでいた。半世紀ぶりに手にしたサザエさんだったが、どのページもセリフまでよく覚えていた。娘宅で孫に読んでやったら、大いに気に入り、いまでは行くたびに、フーテンだの、新聞配達少年だの、ガーターストッキングだの、木風呂だの、昭和の風習をいちいち説明しながら読んでやっている。
少し前の章は、社会主義やマルクス主義が中心テーマだったので、いくつか訳語を確認するために、『ユダヤ人問題によせて』や『反デューリング論』などを借りてみた。隙間時間にざっと読むのが精一杯だったが、どちらもなかなか面白そうだった。前者では「ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いの宗教を、ただもう人間精神の別々の発展段階として、つまり歴史によって脱ぎすてられた別々の蛇の脱けがらとして認識し、そして人間をそれらの脱けがらを脱皮した蛇として認識しさえすれば」と、マルクスは対立を生むばかりの宗教について言及していた。脱けがらは、宗教や国籍などによる集団のアイデンティティと考えてもよいかもしれない。
後者では、2人の人物を例に挙げて問題分析をするデューリングの手法にたいし、エンゲルスが同じくらいユーモアに富んだ批判をしていた。「ここで読者に不愉快なことをお伝えしておかなければならない。それは今後も長いあいだこの評判の二人の男が、ずうっと読者につきまとうであろうということである。彼らは社会的諸関係の領域において、これまで他の天体の住民というもの——これはおそらくもうかたがついたと思うが——が演じてきたのと類似した役割を演ずるわけである」。訳者はにやにやしながら、この箇所を訳したのだろうと、つい想像してしまう。
このあとはファシズムに焦点を当てた章で、カール・シュミットの本を借りて読んでみた。ファシズムの成立過程やその思想について、これまできちんと読んだことはなかったので、ルサンチマンとの関連がとくに、大いに考えさせられた。ついでに言えば、フランス語の発音とは程遠い、「ルサンチマン」というカタカナ語はどうも好きになれないので、原書が英語でリゼントメントと書いている箇所は「恨み」とシンプルに書くことにした。
極めつきは民主主義や社会主義とファシズムの共通点だった。民主主義の根本的な問題と言えるものは、ほかの章でも説得力をもって論じられており、いま世界各地に現われているさまざまな歪みは、生じるべくして生じたのだと思わざるをえなくなっている。
年末なので、もう少し楽しい話題にしたかったのだが、あまりにも余裕のない日々を送っているため、どうぞご勘弁を。