2025年2月21日金曜日

雛人形考

 昨秋、娘に教えられて読んだルーマー・ゴッデンの未邦訳の児童書の続編『Little Plum』に、マッチ棒で雛人形をつくり、ケーキでつくった雛壇に挿して飾るという突飛なエピソードがあった。挿絵の人形は雛人形にはまるで見えなかったし、そもそもマッチも見なくなって久しく、わざわざ買って試してみる気にはならなかった。それでも、この話は頭の片隅に残り、年末にたまたまネット上で多面体のウッドビーズの画像を見た途端、爪楊枝とウッドビーズを組み合わせてはどうかとひらめいた。  

   ケーキの雛壇というアイデアは採用せず、うちにあった端材でまずは組み立て式の極小の雛壇をつくった。各段に小さな穴を開け、楊枝の雛人形をそこに挿せるようにした。ウッドビーズを2、3個の通した楊枝はまるで串刺しした銀杏のようだったが、雪洞や桜、橘にいたるまで、すべてウッドビーズや木材を組み合わせることで、一応それらしいものができあがった。 

   小さな階まで備えた豆雛壇飾りを眺めながら、これぞヒエラルキー、序列の最たるものだなと苦笑してしまった。何しろ、ずっと平等に関する本を訳しており、序列についていろいろ考えさせられた挙句に、夜な夜な階段をつくっていたのだ。  

   今回の豆雛では、衣装はすべてただ色で塗り分けることにした。男雛と右大臣、左大臣がいわゆる着物ではなく束帯を着ていることは、その昔、娘に2セット目のお雛様をつくった際にようやく気づいたことだった。見慣れないその衣装は何やら昔の中国皇帝の袍のようで、違和感を覚えたものだった。袍との大きな違いは振袖のような長い袖だ。 

   じつは年末に、公家のことを揶揄して「長袖」と呼んでいた理由を調べていた。武士は袖の周囲に紐を通した「袖括り」で邪魔な袖を絞っていたのにたいし、公家や僧侶はそのままにしていたためという。ただし、徳川慶喜が大坂城で束帯を着ている姿をワーグマンが描いているので、武家でも正装は束帯だったのかもしれない。 

   パークス一行が謁見した際のこの大坂城のイラストでは、裾が踵よりもはるかに長い「長袴」を着ている武士もかなりいる。幕末に来日した外国人が長袴姿の役人を見て、立膝で進んでいるのだと勘違いした話をどこかで読んだ覚えがある。背の低い人であったとすれば、なおさらそう見えただろう。御殿の床を拭き掃除するようなこの袴は、明治維新ともに廃れたに違いない。ワーグマンは横浜で鉄道が開通した折の明治天皇と新政府のお歴々も描いている。天皇だけ束帯姿だが、袴は指貫とか狩袴と呼ばれるハーレムパンツのようなものを着用し、浅沓と思われるものを履いている。 

   豆雛をつくり終えてから気づいたのだが、束帯の背中部分には、用途不明の石帯という瑪瑙などの石を取りつけた革のベルトが本来ついているらしい。母の初節句に曽祖父が贈った昭和初めの内裏雛で確認してみたら、石こそないが、黒い革の帯を締めていた。唐代や明代の袍では、これとよく似た石付きベルトが腹側に締められている。 ネット上でざっと調べた限りだが、石帯はもともと金属製の帯だったらしい。奈良の大塚陵墓参考地や新山古墳から出土した帯金具のようなものだ。魏晋南北朝や鮮卑関連の出土品とよく似るもので、それが帯、つまりベルトであることが私の興味を大いに掻き立てる。というのも、D・アンソニーの『馬・車輪・言語』(筑摩書房)をはじめとするいくつかの文献に、コリオスなどと呼ばれた裸体にベルトだけを締めたような若者の襲撃団のことが書かれていたからだ。騎馬民族のあいだでベルトは大きな意味をもつものだった。その風習が鮮卑を通じて遠い日本まで伝わり、平安時代に背中側のひそかなファッションになったのでは、というのが私の想像だ。 

 母の女雛も、曽祖父が伯母に贈った段飾りの女雛も、享保雛のように垂飾がゆらゆらとする明代の妃のような宝冠をかぶっている。以前に慕容との関連で記事を書いたことがあるが、石帯というもう一つのヒントを得たいま、またぞろ古代史への興味が湧いてきた。女雛に関しては、腰から背後に裳という薄衣がついていることも新たに知った。「裳を引く」という言葉があるように、要は西洋のドレスのトレインに似たもので、よく言えば天女の足元を隠す羽衣なのかもしれないが、これも宮中の床掃除をするものだったに違いない。  

 雛人形にはそれぞれ特有の持ち物がある。下段にいる五人囃子の太鼓や左右の大臣の矢筒などは、御道具のお膳やタンスとともに、子どものころ触って遊んだためによく知っていた。今回も矢筒はアイスクリームの棒を小さく切り、そこに矢を描いてビーズに貼りつけてみた。だが、考えてみれば、太政大臣や関白のいない時代には公家の最上位にいたはずの両大臣が、なぜ門番のように武装して立っているのかは謎だ。昇殿の際は、城内と同様、帯刀は許されなかったはずで、男雛が刀を差しているのも余計な気がする。  

 雛人形には立っている人と座っている人がいるが、座っている人形は少なくとも男性はみな胡座をかいている。正座を求められるようになったのは徳川家光以降という説がネット上には散見され、打袴を穿いている女雛と三人官女も、あまり両脚をぴったりつけているようには見えない。座り方の風習に関しては、暇になったらもう少し調べてみよう。  

 じつは豆雛をつくる前に、ゴッデンのもう一冊の日本人形の本『Miss Happiness and Miss Flower』も読んでおり、それをきっかけに小さな日本人形をつくったことは以前にも書いたとおりだ。邦訳出版してみたいと何社かに企画をもちかけてみたのだが、いまのところ成功していない。だいぶ古い作品ながら、先行き不透明で、欧米という指針を失ったようないまの時代にこそ読む価値があると思うのだが、どこかで拾ってもらえないだろうか。 

 この本では非常に小さな市松人形と思われる日本人形が石膏にガラスの目を埋め込んであると説明されていた。今回、いくつか雛人形の制作工程を調べたところ、どうやら正しくは桐塑胡粉技法と呼ばれるらしい。桐のおがくずと膠を混ぜたものでつくった原型に、胡粉と膠を混ぜたさまざまな濃度の液体を何度も塗り重ねるという、気の遠くなるような工程を経ている。目を埋め込んだ箇所を彫刻刀で切って「開眼」させる工程は、恐ろしいがなかなかの見ものだ。胡粉や膠は素人には手に負えないので、私は石膏粘土に3ミリほどのアイオライトのビーズを埋め込んで、小さな日本人形をつくってみたが、柔らかい状態ではうまく切れず、「人形は顔が命」という宣伝文句が耳にこだました。  

 母の雛人形は座高が10センチ前後の小さいもので、今回しげしげと眺めてみたが、老眼では目のつくりまで見えない。接写して画面で拡大してみたところ、確かに小さなガラスの目が入っているのがわかった。こんな小さい顔を精巧につくった職人技に感嘆する。宝冠の飾りは取れかけてしまっていたので、家にあった細い銅線と石のビーズで数箇所だけ修復してみた。背後には屏風の代わりに几帳があり、鳳凰と桐が描かれているが、五三でも五七でもなかった。衣装はとくに凝ってはおらず、パルメット起源と言われる忍冬唐草文の織物が使われていた。父親の赴任で朝鮮咸鏡南道の興南で生まれ、おそらく翌年初めに帰国した2番目の孫娘に、「祝 祖父 山口乕雄 門倉洵子殿 昭和十一年二月吉日」と箱書きして贈ってくれた曽祖父は、どんな思いでこの内裏雛を選んだのだろうか。  

 今回、私が爪楊枝とビーズでつくった豆雛も、毛先の割れた細筆と老眼ゆえにどれも妙な顔立ちになってしまったが、小さな紙箱にすべて収まるため、娘は一目見るなり「欲しい! 顔を描き直すよ!」と言いだした。ついでにこしらえたピアス金具付きのお雛様だけは、先日ようやく色をつけて、今年の雛祭りに間に合わせたようだが、残りは来年回しとなりそうだ。いつか完成したら、写真を追加することにしよう。

爪楊枝とビーズの豆雛と、雛祭りをする人形たち

豆雛の段飾りは、この小さな箱に収まる

母がもっていた男雛の背面。石こそ付いていないが、黒い革の帯がある。笏は紛失してしまい、私が昔アイスクリーム棒を削ってつくったものをもっている

女雛のアップ。ガラスの目であることがわかる

飾る場所もないので、人形たちは返品されてきた自費出版本の段ボールの上に載せられている。左側の押絵は90年以上前のもの。鋏箱の上に乗る小さな内裏雛は、私の2セット目の布製雛。御道具類はヤフオクで数年前に購入したもの

娘が絵付けをしたピアス雛。背面にはちゃんと石帯と裳が描かれている

2025年2月1日土曜日

ストレス解消

 予定より一か月遅れでようやく本文は訳し終えたものの、これから見直しと訳語の統一をやらねばならない。A4にして54ページもあることが判明した巻末の原註はこれからで、まだまだ先は長い。それでも、一昨年から並行して書いていた「忠固研」のための論文を先日、曲がりなりにも入稿できたこともあり、諸々の峠は越したかな、と思う。 

 とはいえ、この間のストレスはかなりあり、肋間神経痛かと思うような痛みがあったり、めまいがしたり、歯を強く噛み締めていたりと、黄色信号が出ているのが自分でもよくわかった。隙間時間に寸暇を惜しんで参考文献に目を通せば、仕事も効率よく進むだろうし、多くのことを学べるとは思うのだが、疲れ気味のためつい逃避行動に走ってしまう。何度か書いているが、私の場合、それは往々にしてしょうもない工作物をつくることになる。今回のそれは、たまたまネット上で目にしたサザエさんの家の間取り図がきっかけだった。  

 年末にもちらりと書いたが、私の孫はこのところやたらサザエさんにはまり、日常のさまざまな場面で、サザエさんのセリフを口にしている。自転車のチャイルドシートのベルトが冬物の上着のせいでうまく締まらないと、「フッ、フッ、ベルトの穴一つで寿命が5年違うと言うじゃないか」など、ふざけたセリフが大半だが、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句も、カツオ君のそれをもじったセリフ(何を着る人ぞ)からしっかり覚えていた。これはワカメちゃんが寒くて寝ぼけ眼で布団の上に足拭きマットを掛けて寝る場面からだが、その柄が自宅のトイレ・マットとそっくりであるため、強く印象に残ったらしい。 

 先日、孫は遊びに夢中でトイレが間に合わず、母親(私の娘)から先を考えて行動しなさいと説教されていた。その直後に娘が「ご飯炊くのを忘れた!」と叫ぶと、六歳児がすかさず「お言葉を返すようですが」と言ったのだ。一瞬の沈黙ののち、娘と私は大爆笑。孫は得意げににんまりとしていた。これは夏休みの宿題を終わらせていないカツオ君を叱るサザエさんに、彼女自身の三日坊主の日記数冊をカツオ君が突き返す漫画で覚えた言い回しだった。 

 何かとサザエさんを検索していたせいか、先月なかば、フェイスブックにサザエさん宅の俯瞰図が現われたのだ。世田谷区桜新町という設定の、かなり広いその平屋の画像をダウンロードし、孫に見せてやろうと眺めているうちに、考えてみれば孫は畳も障子も襖もない家に生まれ育ったなと思い当たった。四畳半だの六畳だのという言葉が死語になる日も、そう遠くはないのかもしれない。私自身、床間や違い棚は、旅館や保存された日本家屋でしか知らない。

「木材で手軽に建て、ガラスの代わりに紙を張った日本の家屋は、焼けるのに手間はかからない」と、幕末の日本に滞在したアーネスト・サトウが横浜の大火の折に書いたように、日本人は長らく木と紙と、若干の漆喰を使って家を建てていた。襖や障子で仕切られただけの空間は、音は筒抜けで、プライバシーもへったくれもないが、間取りは人数に合わせて自由に変えられ、風通しはやたらによく、陽光も取り入れられ、悪い面ばかりではない。縁側、玄関、勝手口の段差は、日本家屋が思いの外、高床に建てられてきたことを再認識させる。 

 うちの近所にも、いかにも昭和の家という感じの平屋が何軒もあったし、旧東海道沿いには昭和の初めごろの建築と思われるお屋敷もちらほらあったが、この十数年間で世代交代してどんどん建て替えられてしまった。最近は気密性を高くするためか、窓がほとんどない家もよく見かける。  

 実際に見ることが難しくなってきた昭和の家の造りを、せめて紙模型で孫に見せてやれたらと思いつき、手始めに2×4センチの小さな紙の畳をたくさんこしらえ、同じサイズで襖をつくった。敷居と鴨居は悩んだ末に、やはり厚紙を細く切ったものを3本貼りつけてみたところ、一応、スライドできることがわかった。雨戸までつくる元気はなかったが、縁側にはOPP袋でガラス戸もつくった。サザエさんの家は物置、トイレ、勝手口以外は、すべて引き戸だ。押し入れには布団を入れ、仏壇、掛け軸、雨戸の戸袋はつくった。木の雨戸のある家も減ってきているが、戸袋に巣をつくるムクドリやハッカチョウが穴から出入りするところは、孫と何度か眺めたことがあったので、戸袋は必須アイテムだった。全部つくるかどうかは不明だが、襖で仕切られた「田の字型の間取り」四部屋は完成させようかと思っている。 

 こんな調子で工作している限りは、体の不調も感じないので、ストレスはまさしく万病の元と思う。紙の模型に使用する材料はゲラが入ってきた大きな厚紙封筒や、レゴのパーツが入ってきたパッケージ(大量にある)、それに娘が長年、溜め込んだ包装紙等なので、制作費はゼロ円だ。常備しているコニシの木工ボンドだけは、少なくなってきたので買い足したが。狭い家のなかで場所をとるのは困るので、パーツごとにつくって自由に並べる方式にしたので、全体がいまのところA4サイズのネコポス用ダンボールのなかに収まる。 

 こんな妙なことを思いつくのは私くらいだろうと思ったら、サザエさん宅は人気があるらしく、本格的な模型がいくつも制作されていることを知って大いに笑った。最初に見つけた俯瞰図以外の間取りも複数あり、論文のようなものすら見つかった。まあ、それだけ昭和が遠くなり、ミニチュアで再現しなければならないものになったのかもしれない。

 縁側から見た図

奥が仏間。押し入れもあるので、そこが波平・フネさんの部屋ではないかと、ひそかに思っている。

奥が床間。そちらが老夫婦の部屋と見取り図はどれも書くが、客間ではないのかと思う。

一昨年にタイの友人たちと行った佐倉の旧堀田邸(明治23年築)。床間横の違い棚の上は天袋、下に収納場所があるものは地袋というようだ。そこに季節ごとの掛け軸や、花器などを収納しておくのだろう。それだけのために、かなりのスペースが割かれていたことになる。