2005年12月1日木曜日

水について考える

 以前、新聞で、地下につくられた巨大な放水路に見学者が詰めかけているという記事を読んだことがある。江戸川の洪水予防施設としてつくられた全長6.3キロにわたる地下の大空間で、完成して実際に使用されるまで見学が可能ということだった。それこそ、昔のスパイ映画に登場しそうな地下の巨大な水路だ。  

 こんな巨大なものではないけれども、近所の川の横にはいまかなり大きな遊水地をつくっているし、新しく建つマンションの地下にも大きな貯水槽があることが多い。すぐ近くの小学校の地下にも大きな貯水槽があるから、大地震のときはあそこに行くといいと言われている。 実は先日、「雨と共生する水辺都市の再生」という国際シンポジウムに行ってきた。といっても、二日目の午後、参加しただけで、そもそもの目的は私が訳した本の著者ブライアン・フェイガンがこのシンポジウムに講演者として招かれていたため、彼に挨拶に行くことだった。フェイガン氏はがっしりした体格で、バイキングの子孫ではないかと思わせる気さくな感じの人だった。巨大なミシシッピ川に高い堤防を築いて管理することの危険について彼が書いたのちに、ハリケーン・カトリーナによる大被害が起きたため、講演の内容はそのことが中心になっていた。  

 フェイガン氏のあと、タイ、ドイツ、韓国、および日本の水と都市に関連するさまざまな分野の専門家の発表があった。インド洋の津波被害のあと、貯水池に塩が混じって飲み水として使えなくなった話や、地下水がヒ素で汚染されているバングラデシュで、竹を使って屋根の雨水を集める2ドル・プロジェクトを推進している話などは、切実な問題として強く印象に残った。雨として降った水が、コンクリートでおおわれた地面を流れて川に直行し、氾濫するのを防ぐために、最近は国技館のような大きな建物も、都心のビルも雨水を貯水するタンクを設けているのだという。大雨になることが予想されるときは、事前に時間をかけてその水を放出して備え、ふだんは溜めた水をトイレの水洗、散水などに使う。タイでは昔から民家に大きな水がめがあるし、ドイツでは地中に埋め込み式の貯水タンクを民家に備えて、それでトイレ、洗濯、庭木の水遣りなどを賄っているらしい。 

 日本では、「湯水のように使う」という表現があるほど、水は蛇口をひねれば当然でてくるものだ。私たちにとって水は便利で手軽なものだが、多すぎても少なすぎても厄介な問題を引き起こす。私はいまのところ、キャンプで水場から汲んできた水でやりくりした経験や、アルジェリアの砂漠のなかのホテルで水がでなかった経験はあるけれども、本当に水で苦しんだことはない。水の怖さのほうも、バンコクで多少の洪水を経験したくらいで、まだ本当に味わったことはない。このシンポジウムに参加したおかげで、ふだん、なんの気なく使っている水という資源について改めて考えさせられることになった。天から降ってくる雨水をうまく溜めて有効利用し、水害も防ぐなんて、これこそまさに人類の知恵だ。

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