2008年1月4日金曜日

『2012地球大異変』

 2007年は仕事に追われているうちに、いつの間にか終わっていた。 年末、上智大学管弦楽団の定期演奏会の招待状を弟からもらったので、翌日締め切りの原稿を放りだして、数時間でかけてきた。上智オケの公演など、在学中は一度も聴きに行ったことがなかったが、学生オケにしては本格的な演奏会で、充分に楽しめるものだった。  

 会場で思いがけず、管弦楽団の名誉顧問をされているアルフォンス・デーケン先生にお会いすることができた。デーケン先生の「死の哲学」は確か半年だけの一般教養の科目だったが、講義の内容は卒業後も忘れられないものだった。当時はまだ癌などの病気は患者本人に告知しないことが一般的だった。突然の死を宣告された人はその不条理に怒り、反発し、落ち込むが、やがて徐々にそれを受け入れて、残された日々を豊かに生きられるようになると学んだ私は、癌になったらすぐに教えてほしいと家族に頼んだ覚えがある。 

 死は誰にでもかならず訪れるものだが、人は往々にして死を考えまいとして、いまの生活が永遠につづくかのように錯覚している。でも、死をはっきりと意識して、人生は限られた短いものだと考えることで、人はより充実した生を送れるようになる。大学1年でこうして死を身近に意識させられたおかげで、私は日々を漫然と過ごすような人生は送らずにすんでいるのだと思う。 先を見通す力を英語ではvisionという。人生の果てにある死を意識することも、visionをもつことだ。visionという言葉には視野や視力のような意味もあるし、幻覚という悪い意味もある。平和な世の中では、visionaryは夢想家として笑われる。現に、デーケン先生も1977年に死の哲学の講義を始めた当初は、縁起でもないと周囲から猛反対されたそうだ。高齢化が進んだ現在は、先生が力説されていたターミナル・ケアの考え方が日本でも浸透してきているが、当時はまだ「誰もが若くて永遠に生きており、死に関する話は差別的発言にも等しい」時代だったのかもしれない。 

 実はこの言葉は、暮れに出版された私の訳書『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』のなかで、著者のローレンス・E.ジョセフが書いていたものだ。 “太陽”と呼ばれる一つの時代が2012年12月21日に終わるとするマヤの長期暦を、科学ジャーナリストである著者がさまざまな角度から検証するという、一見、かなり怪しげな本だ。 

 一般にこの世の春を謳歌している人は、近い将来、地球全体に危機が訪れる可能性などまずないと考え、かりにあったとしても、はるか未来の出来事だろうと高を括っている。だが、現代のような状況がこの先もつづく保証は実はどこにもない。変化の時代には、広い視野と長期にわたる見通しをもって、この先に起こりうる事態に備える必要がある。死を意識することでより有意義な人生を送れるようになるのと同様に、文明の終焉を多数の人が予期すれば、人間社会全体はもう少し高尚なものに変化できるのかもしれない。もっとも、そう意識したからといって、現実に大惨事が起きた場合に自分が助かるかどうかは、どうやら別問題らしい。 新しい年が始まって、マヤの予言の日までまた一歩近づいた。現実的な私は、その年に大惨事が起こるとは思っていないが、万一、そこで人生が終わっても悔いが残らないように、これからはなるべく毎日を楽しむことにしよう。 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 行徳での初日の出

『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』
 ローレンス・E・ジョセフ( NHK出版)

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