それでも、湘南の冬のやわらかい日差しを浴びながら、小さい商店が並ぶ藤沢の町を地図を片手に歩くと、ちょっとした旅行者気分が味わえた。途中、真っ赤に塗られた遊行寺橋の欄干を見て、娘が中学1年の夏休みの宿題のために、旧東海道を歩いた際に同じ道を通ったことを思いだした。このコウモリ通信を書き始めて間もないころのことだ。あれからすでに10年以上の歳月がたっている。藤沢駅から南は、娘が大学受験から解放された直後に、2人で江ノ島まで行ったときにたどった境川沿いを再び歩いてみた。
それにしても七福神というのは、日本古来の神々から、ヒンドゥー教や道教の神々などが入り交じった不思議な信仰対象だ。宝船に乗った図は中国の八仙とそっくりだ。「福」が精神的な幸福よりも、商売繁盛とか長寿といった、財福に近い具体的なご利益であるところは、いかにも庶民的だ。七福神に限らず、日本で信仰対象となるものは得てして、合格祈願や安産、交通安全、豊作などのわかりやすいご利益のあるものか、先祖や土地の霊だろう。それぞれの願いをかなえてくれそうな神さまに、必要に応じて祈願し、その対象はお稲荷さんであったり、菅原道真や源義経のような歴史上の人物であったり、如来や菩薩であったりする。宗教は何かと問われて、答えに窮する日本人が多いのはそのためだろう。
でも、たとえば仏教国と言われるタイでも、街で人びとが祈りを捧げている対象はヒンドゥーの神やピー(精霊)の祠だったりするし、関帝廟も随所にある。中国風の観音菩薩の前でひれ伏して祈っている若い女性は、煩悩を捨てようとしているというよりは、恋愛成就を願っているように見える。同じような例は、一神教であるはずのキリスト教やイスラム教でも実際には見られる。カトリックではとくに、殉教者の聖遺物などが病気を治す信仰対象になっていたりするし、メキシコのグアダルーペなどでは聖母が出現したとされる地へ信者が這って詣でている。聖人信仰はイスラム教のスーフィズムにも見られ、アジアにイスラム教が広まったのは、そのためだと言われている。おそらく、土着信仰を頭ごなしに否定せずに、八百万の神に聖人を加えるかたちで徐々に布教した結果に違いない。
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