『100のモノが語る世界の歴史』でも、葛飾北斎の有名な大波の浮世絵「神奈川沖浪裏」をとりあげた章を読むうちに、頭にさまざまな疑問が浮かびあがってきた。舶来の顔料であるプルシアンブルーが使用されていたことはテレビ番組から知っていたが、鎖国下の日本で、折しも天保の飢饉のころに、なぜ輸入品を大量に使用できたのだろう? この本によれば、1820年代にこの顔料は中国でも製造されるようになり、それがもち込まれた可能性が高いという。日本古来の青は退色しやすかったからだが、たしかにこれ以前の時代の浮世絵は地味な色調に見える。その従来の青とは、なんとツユクサなのだ。実際には栽培種のアオバナだろうが、道端のツユクサをいくつか摘んでつぶしてみたところ、指が染まるほど鮮やかな青になった。一ヵ月たったいまもまだ青いが、当初の彩度はない。
だが、伝統的な青には堅牢な藍だってあるはずだ。そんな疑問がぬぐえず、アダチ版画研究所で浮世絵の摺りの実演を見学させてもらった。新聞記者かと聞かれるほど、しつこく質問してみたものの、絵の具に関する謎は解けなかった。この実演で摺り師の技にすっかり魅了された私は、無謀にも消しゴム判子と馬簾で真似てみたが、なんとも難しかった。
その後、関内にある絵の具屋三吉で絵の具についてあれこれ聞いてみたところ、顔料に詳しい社長さんを紹介してくださり、吉備国際大学の下山進教授の研究があることを教えていただいた。絵画を傷つけない特殊な非破壊分析法で調べた結果、北斎のこの絵の輪郭線となる主版には藍が、その他の青の色版にはプルシアンブルーが使われていたことが判明したそうだ。これは従来の学説とは異なり、私の勘もなかば正しかったことになる。
だが、疑問は色だけでは留まらない。この絵は「世界から孤立したまま自己充足し…美意識の強い夢見がちな日本人」が、「近代世界の入口に立ったときの日本の心理状態について語っている」と先の本の著者は考える。外国人の目に日本がそのように映っていたとは! ペリーの来航とは実際にはどのようなものだっただろう? 幸い、横浜で「ペリーの顔・貌・カオ」展が開催されていたので足を運んだ。意外にも、ペリー艦隊は太平洋を横断してきたのではなく、大西洋を越え、喜望峰を回って各地に寄航しながら八ヵ月近くかけてはるばる久里浜にやってきていた。黒船艦隊の蒸気船はミシシッピ川の外輪船にも似て、ほほえましくすらある。長旅のあいだずっと軍服に身を固めていたとも思えないので、上陸後の行進などは現地民を威圧するための精一杯のパフォーマンスだったかもしれない。
北斎の絵に描かれた小船は、木更津から江戸へ魚を運ぶ押送船だと言われる。陸路だと78キロの距離を、海路なら52キロに短縮できたそうだが、彼らは帆もなく、櫓で漕いでいた。神奈川沖というのは、神奈川宿があった付近という意味だが、実際にはもっと木更津よりの沖合海上から見た図と考えられている。いずれにしても、東京湾内なのだ! この位置からの景色を眺めてみたくなり、横浜駅からアクアラインを通るバスに乗って木更津まで行ってみた。漁師たちが荒波と闘っていた海の下を、バスはわずか7分ほどで潜り抜け、海上に架かる橋梁部をスイスイと飛ばす。20年ほど前、旅行会社に勤めていたころ、建設途中の人工島を視察するためヘルメットをかぶって上陸したこともあるのに、この路線を利用したことはなかった。この季節なので対岸も見えなかったが、冬のよく晴れた日にもう一度このバスに乗って海ほたるで下車し、富士山が見えるかどうか試してみたい。
アダチ版画での実演
消しゴム判子版の「神奈川沖浪裏」
亜米利加船渡来横浜之真図(部分)安政2年
ベイブリッジから見た現在の神奈川沖
ニール・マクレガー著(筑摩選書)
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