2013年12月31日火曜日

ボニン諸島

 ボニン諸島と聞いて、どこの島かすぐに思い浮かぶ日本人はどのくらいいるだろうか。じつは小笠原群島のことだ。歴史時代で最初にこの群島および火山列島などを見つけたのは、太平洋経由で香料諸島に到達しようとしたスペインのビリャロボスの艦隊の一部で、なんと1543年のことだった。ザビエルの時代である。実際、この艦隊に同乗していたコスメ・デ・トーレスも、戦国時代の日本で布教活動をしている。マニラとアカプルコ間の航路を開拓していたスペイン艦隊は、やがて日本の本土東岸沖を北上し、偏西風に乗ってサンフランシスコまで同緯度を進む、マニラ・ガレオンの航路を見出した。  

 日本人がこの群島の存在を知ったのは、それから一世紀後の寛文期で、紀州の蜜柑船が1000 キロほどの距離を72日間かけて漂流し、母島に流れ着いたためだった。当時は江戸までミカンを輸送するにも苦労していたわけであり、小笠原はまさに絶海の孤島に思えたのだろう。その後も長らくここは無人島だったが、オランダ商館長ティチングが1796年にもち帰った林子平の『三国通覧図説』にブニンジマ(無人島、本名小笠原島と云)と書かれていたため、ボニン・アイランズとして知られることになった。  

 早くも1824年にはイギリスの捕鯨船が、小笠原海域に豊富にいたセミクジラやマッコウクジラを追ってここまでやってきた。1830年にはアメリカ人ナサニエル・セイヴァリーをはじめとする欧米人数人とポリネシア人が父島に入植している。太平洋の真っ只中にあるこの群島は、水や食糧を確保できる貴重な寄港地と目されていたのだ。このころにはロシアやイギリスの軍艦、捕鯨船がきわめて頻繁にこの島々を訪れるようになった。ペリー艦隊も1853年に浦賀に来航する前に小笠原探検をしている。小笠原の野生化したヤギは、ペリー艦隊がもち込んだとも言われているが、すでに欧米系入植者がいたので、彼らが連れてきた可能性のほうが高そうだ。  

 日本は1862年になってようやくこれらの離島の重要性に気づいたようだ。外国奉行の水野忠徳が咸臨丸で小笠原に赴き、セイヴァリーら島民に、今後は日本がこの島を管理する旨を告げ、日本人移住者も八丈島から送り込まれた。その後、日本は急速に海外へと進出するようになり、第一次世界大戦では連合国側について、当時ドイツ領だったミクロネシアの島々を無血で占領した。ヴェルサイユ条約によって1922年からは南洋諸島としてこの海域一帯を委任統治することになり、1933年に国際連盟を脱退後も居座り、父島には要塞を築いた。第二次世界大戦が始まると、日本はアジア各国のほか、太平洋の島々もソロモン諸島やニューギニアにいたるまで一時的に占領したが、1944年には北マリアナ諸島も大激戦の末に米軍に奪われ、その後、グアム、サイパン、テニアンから日本本土への空襲が始まった。翌年3月には米軍は硫黄島でも日本軍を壊滅させ、この島からも多数の小型戦闘機などを送り込んだ。広島・長崎の原爆投下のB-29爆撃機は、テニアン島から2500キロほどの距離を飛んできた。往復で13時間ほどの飛行だったという。中間点の硫黄島は、往路に上空で編隊を組む地点となったほか、復路に不時着可能な場所にもなった。  

 いまの日本人の大半にとって、小笠原諸島は再び天気予報で名前を聞くだけの、地図の片隅に別枠で記された遠方の島々に過ぎなくなった。この一カ月ほどは、西ノ島沖に新島が出現したために、やれ領有権だ、領域拡大だと騒がれているようだが、フィリピン海プレートの端に位置し、そのすぐ東で太平洋プレートが沈み込み、小笠原海溝が形成されているこの特殊な海域で、大きな海底火山の噴火があり、地殻変動も起きていることが、はたして朗報なのかどうか。北硫黄島にマリアナ諸島と関連がありそうな先史時代の痕跡があるそうだが、火山の噴火から逃げるために移住してきた可能性があるという。父島に渡るフェリーは竹芝桟橋から週に一回しかでておらず、片道25時間30分もかかるようだが、いつか行ってみたい。  

 自宅のパソコン前からなかなか動けない私の駄文ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします

 三国通覧輿地路程全図、部分

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