2隻目のエド号は1858年5月に長崎に到着し、朝陽丸と命名され直された。幕末の動乱期に、この船は咸臨丸と、ヴィクトリア女王から寄贈された蟠竜丸とともに、幕府の主力艦として小笠原諸島を含む日本各地の輸送任務に使われた。ところが、朝陽丸は1868年の戊辰戦争のさなかに明治政府の手に渡り、翌年の函館戦争に投入された。長崎奉行所の振遠隊28名を含む、各地からの乗組員は2月に長崎を出航し、4月14日には松前城を攻撃した。「しかし5月11日の函館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈」。80名前後が戦死し、長崎の振遠隊の生存者はわずか2名だった。戦死者の大半は10代後半から20代の若者で、15歳の少年もいたようだ。
振遠隊の戦死者のなかに、山口亀三郎という士官格の若者がいた。享年19歳だった。じつはこの名前が、先月の「コウモリ通信」に書いた、娘の親戚聞き取り調査のときのノートに書き留めてあった。「戊辰の役で長崎知事からもらった掛け軸がある。明治2年5月11日、山口亀三郎源克明戦死、その後、褒美の禄をもらった証明書」と、メモにはあった。この亀三郎が誰に当たるのか、長崎から祖母の死後に戸籍を取り寄せた叔父夫婦にも見当がつかなかった、と娘は記憶している。
この名前だけを頼りにネットで検索したところ、函館に己巳役海軍戦死碑があって、戦没者を調べあげたサイトなどがあったおかげで、前述のような内容が判明したのである。私の曾祖父は実父が放蕩親父だったらしく、山口家に養子入りしている。その経緯については誰も詳しく知らず、私も山口家のモヤさんという曾祖父の義母がすばらしい美人で、略奪されるようにしてお嫁にきたという話を、高校生のころに祖母から聞いた限りだ。「血はつながっていないんだけどね」という祖母のオチに、大笑いした記憶だけがある。
祖母の戸籍等から判明したモヤさんとその夫の生没年、およびこの朝陽丸の事件の年代を書きだしてみると、意外なことがわかった。私の曾祖父が養子縁組をしたころには、山口家の生存者はモヤさんしかいなかったという事実だ。ここからは私の推理でしかないが、おそらく山口家は残っていた唯一の息子の亀三郎が19歳で戦死してしまったあと、1880年には父親も亡くなり、モヤさんだけが取り残されたのだろう。曾祖父がいつごろ養子に入ったのか定かではないが、実の弟たちと戦後まで付き合いがあったようなので、大きくなってからの養子縁組で、学費をだしてもらった可能性が高そうだ。大事な跡取り息子を亡くした山口家の悲しみは、掛け軸と褒美をもらい、石碑に名前を刻まれることで癒されたのだろうか。地元長崎にも明治初期に振遠隊戦没者のために梅ヶ崎招魂社が建てられたが、その後、台湾出兵の戦没者などと合祀され、あげくに原爆でそのすべてが失われたらしい。身近な過去を調べることで、近代史の思いがけないさまざまな事実を知ることになった。
長崎海軍伝習所絵図。陣内松齢作(昭和初期の作品)。徴古館蔵。
蟠竜丸の砲撃を受けて沈む朝陽丸。作者不詳(岩橋教章の一連の作品の可能性がある)
0 件のコメント:
コメントを投稿