なにしろ、これまでバリについてはあれこれ読んできたからだ。ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』には、北部の山の上にあるバトゥール湖やブラタン湖をおもな水源とするバリで、棚田の水を人びとがどのように管理してきたかが書かれていた。私たちが訪ねたウブドは、円形劇場のように棚田が広がる、と19世紀にアルフレッド・ラッセル・ウォレスが書いたこの島の中腹にある。ウブドでは南北方向に何本も峡谷が走り、棚田はそのあいだの尾根に用水路を引いてつくられていた。もっと北部のテガラランのような急峻な棚田では、畦の一部を壊して上から滝のように水を流し入れていた。ウブドの町から少し歩くだけでも、こうした田園のなかを歩ける。取水口には、本に書かれていたとおりに小さな祠が立っていた。
尾根沿いにある用水路と平行して、すぐ横の谷底を急流が走る場所を歩くと、バリの地形が実感できた。南北は緩い勾配だが、東西に移動しようものならたいへんだ。バリ最初の王国の所在地とも考えられているペジェンにどうしても行きたくて、地図上ではウブドからわずか4キロほどであることを確認して、自転車を借りてでかけた。ところが、途中の川を横切るたびに、猛烈な下り坂と上り坂を繰り返すはめになり、30度をはるかに超える気温のなかを、汗だくになりながらサイクリングすることになって、同行した姪と娘に大ひんしゅくを買った。それでも、この日は運良くペジェンのプラタラン・サシ寺院の祭日と重なり、村人総出のようなヒンドゥーのお祭りをのぞくことができた。もちろん、東南アジアで最古級と言われる紀元前3世紀ごろの巨大な青銅鼓、「ペジェンの月」も見てきた。裏側に回ると、空から落ちた月が爆発して割れたという言い伝えの残る底の部分が見えた。
ウブドでは夜に王宮の中庭で伝統舞踊を見たほか、ホテルの敷地内で催される影絵芝居ワヤン・クリも鑑賞した。演目はちょうど、『100のモノが語る世界の歴史』でとりあげられていたビーマだった。ヤシ油ランプの裸火に照らしだされた細密模様の人形は期待どおりに神秘的な雰囲気を醸しだしていたが、80才の人形遣いがあまりにも激しく人形を動かすため、ドタバタ喜劇になっていた。ウブドで滞在したのは、「ホームステイ」と呼ばれる格安の民宿だったが、その名のとおりに家庭的な宿で、敷地の裏に耕筰放棄地が広がっていたため、居ながらにして草地をヒョコヒョコ歩くシロハラクイナや、青い羽と赤いくちばしが美しいジャワカワセミを眺められ、夜はホタルを楽しめるという特典付きだった。
バリは、祭りを意味する言葉だそうで、年中どこかで祭りがあるらしい。210日周期のウク歴でいちばん大きな、日本のお盆のような祭りはガルンガンと呼ばれる。それが今年はそれが2月10日から始まっていたため、島内にはまだいたるところにペンジョールという竹飾りが飾られていた。バリでは昼過ぎと夜間にほぼ毎日スコールに見舞われ、結婚式の当日も途中で土砂降りになったが、甥と美人のお嫁さんのリゾート・ウェディングも、盛大なフォト・セッションも、なんとか無事に終えることができた。
旅の最後には娘とバリ西部の国立公園にバードウォッチングにでかけた。あいにく私は水を飲み過ぎたためか体調を崩し、嘔吐を繰り返していたので、海辺の静かなコテージでぶらぶらしながらこのエッセイを書いている。海のなかには驚くほどの種類の熱帯魚がいて、コテージのすぐそばまでルサジカやジャワルトンがやってくるため、退屈はしない。従業員はみな気軽に話しかけてくる。バリではタクシーの運転手から、通りすがりに道を尋ねた老人まで、驚くほど多くの人がカタコトながら英語を話す。英語のほかフランス語や韓国語を話す人もかなりいるようで、これからは中国語だ、と言っていた。市場などでは、「5枚で1000円」「安いよ」などと声をかけられたが、日本人はとりわけ英語の通じない国民だと誰もが思っているらしい。大多数がイスラム教徒のインドネシアでヒンドゥー教を守り通し、独自の文化を築きあげられたのは、バリ人のこの柔軟なたくましさゆえではないかと思った。いろいろな意味で貴重な体験をした旅となった。
ペンジョール
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