何しろ、私にとってこの成句は何よりも、家にあった2本の交差するペンをかたどった鋳鉄製の灰皿と結びついていたからだ。禁煙時代のいまから思えばありえないことだが、母が大学の卒業記念にもらったものだった。実家の灰皿はすでに処分されていたので、ネットで検索してみたら同じ卒業年度が刻まれた灰皿がヤフオクにでていて、いい値段で落札されていた! 南部鉄器だったらしい。母はこの成句が誰か外国人の言葉だと知っていたので、どうも私が勝手に福澤諭吉の言葉だと思い込んでいたようだ。考えてみれば、福沢諭吉は徹底的な開国派で文明開化を主張した人ではあったけれども、尊王攘夷から手のひらを返したような明治政府が大嫌いで、明治以降もむしろ旧幕臣と親しかったので、武士としてのアイデンティティとも言える刀を真っ向から否定するこの言葉に、どれほど共感していたかは疑問だ。慶応のホームページを見ると、大学のモットーとして採用されたのは明治なかばになってからだそうだ。
このブルワー=リットンの作品は、明治時代の日本でよく読まれていたのか、1878年(明治11年)には『花柳春話:欧州奇事』がロウド・リトン著として翻訳されている。「万能のドルの追求」という言葉で知られる戯曲『マネー』も翻案され、『人間万事金世中』という歌舞伎として翌年に上演された。「万能のドル(almighty dollar)」という言い回しそのものは、実際にはブルワー=リットンより少し早く、1836年にワシントン・アーヴィングがお金に支配された北部人を自嘲して使った言葉だった。アメリカで米ドルが発行され始めてまだ数十年という時期なので、これはスペインの「ピース・オヴ・エイト」を含めたドルだったのではなかろうか。少なくとも、明治時代の日本人にしてみれば、当時の国際通貨だった洋銀、メキシコ・ドルであったに違いない。
ブルワー=リットンはこのように名句で知られるが、現在、私が翻訳中の雨をテーマにしたネイチャーライティング風の本によると、彼の名前は1830年の小説『ポール・クリフォード』の書き出しで、むしろ有名であるらしい。「暗い嵐の夜のこと(It was a dark and stormy night;)」という、なんの変哲もない出だしだが、セミコロンの先にやや陳腐で装飾過剰な文体が長い一文でつづく。「雨は激流となって降り、例外的にときおり降り止むのは、屋根をガタガタと鳴らし、暗闇に立ち向かう街灯の消え入りそうな炎を激しく揺らしながら、通りを吹き抜ける猛烈な突風に(何しろ、この物語はロンドンが舞台なのだ)妨げられた場合だけだった」。この程度の筆の滑りで、のちのちまで笑われるのは気の毒な気もするが、確かにちょっと臭い。
じつは、彼のこうした「評判を確立するうえで最も寄与したかもしれない」のが、スヌーピーなのだという。スヌーピーはアメリカを代表する次の名作を執筆すべく、犬小屋の屋根にタイプライターをもちだして、この書きだしを繰り返し打っていた。彼の場合はもっぱら、「暗い嵐の夜だった」の先が思い浮かばない。「ブルワー=リットン・フィクション・コンテスト」も1983年から毎年開催されていた! 小説を書くほど暇のない人が、未発表の想像上の小説の、最悪な書きだしの一文(60語ほど以内)だけを競うコンテストだ。コンテストはサンノゼ州立大学のライス教授が遊び心で始めたもので、そもそも彼がブルワー=リットンに注目したのは、ヴィクトリア朝時代のあまり有名でない小説家で、ハイフンの付いた妙な名字の人(家名にこだわる名家同士の子孫という意味か)だからだという。彼の作品自体はいまではほとんど忘れられていて、スヌーピーの著者シュルツもブルワー=リットンが出典だとは知らなかった。「暗い嵐の夜だった」というのは、実際にはオランダの昔話によくある始まりだったらしい。
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