たまたま幕末に起きた生麦事件についていくつか当時の文献などを読みくらべ、事件の真相を私なりに探っていたので、『市民グラフ』に思いがけない記事を多数見つけて驚いた。ご存じと思うが、横浜に遊びにきていたリチャードソンという28歳の青年が、横浜在住の友人クラークと、その知り合いのマーシャル、および彼の義妹のボラデール夫人の4人で川崎大師まで馬ででかけ、途中の生麦村で薩摩藩の島津久光の行列とかち合い、リチャードソンが殺され、クラークとマーシャルが負傷した事件だ。彼らはみな、もともと上海や香港に拠点のあった貿易商で、新たに開港した横浜で商売を始めたり、休暇でやってきたりしていた。リチャードソンは惨殺される直前にロンドンの父親にこう書き送っている。「日本はイングランド以外の場所で私が訪れた最高の国です。山や海の景色は抜群です。到着以来、この国のいろいろなところを見て回りました。上海から馬を連れてきましたので、人に頼らずに比較的自由に動けますし、実際、多くの場所を訪れました。幸運にも、江戸に行くこともできました。日本人が他の国々との交わりを絶ち続けてきたことを考えれば、江戸という都市の素晴らしさは驚きです」(『生麦事件と横浜の村々』横浜市歴史博物館)
この事件で負傷したウィリアム・マーシャルは、居留地58番に邸宅を構えていて、のちに山手通りと地蔵坂の角のあたりに美しいバラ園のある屋敷に移ったことを、『市民グラフ』41号の大特集号で知った。マーシャルの家は16番(リチャードソンの検視が行なわれたアスピノール宅の隣)だったとしている記事もあるので、何度か引っ越したのかもしれない。山手の「屋敷は〈ウィンザー・キャッスル〉と名付けられた。というのは夫人が私たち小さな社交界の、全員が認める女王であり、彼女の家が真に解放された、親切なもてなしで有名だったからであった」。常連は英国公使館員のミッドフォードと画家のワーグマンだったという。マーシャル夫人は、生麦事件で帽子を飛ばされ、前髪を切られたボラデール夫人の姉に当たる人で、記事には社交界の女王らしい写真が添えられている。46号には、明治初期に撮影されたこの山手のマーシャル邸のほか、横浜の珍しい写真が104枚もある。マーシャルは、共同経営者のマクファーソンとともに横浜の競馬にも深くかかわった人で、1872年、日本で最初の鉄道が開業し、衣冠束帯姿の明治天皇や政府高官、各国の大使が居並ぶなかで、商業会議所会頭およびヨコハマ・レース・クラブの役員として、居留民代表で祝辞を述べた人でもある。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には、日英間の感情に配慮したのか詳しい説明はないが、「マーシャル氏が横浜の有力商人たちの祝辞をミカドに向かって朗読するところ」と題したワーグマンの挿絵が載っている。わずか10年前の事件当時をよく知るワーグマンは何を思ったのか。あるいは、薩摩藩士として生麦事件のときは抜刀する仲間を止めたという黒田清隆は、マーシャルに気づいただろうか。
鉄道建設に反対だった西郷隆盛、従道兄弟も式典に出席しているが、彼らは生麦事件の前に、島津久光が勅使大原重徳の警護という名目で江戸へやってくる途中の京都で起きた、薩摩藩内部の過激派粛清、寺田屋騒動で藩から弾圧を受けていたため、生麦事件の行列にはいなかった。大原重徳という公家は策士なのか、薩長に利用されたのかよくわからないが、やはり開業式典列車に乗っている。新橋から横浜まで、汽車は途中、袖ヶ浦の入江を横断する幅60メートルの堤防の上を走った。大隈重信の発案によって、高島嘉右衛門が突貫工事で築きあげたものだ。当時の横浜駅はいまの桜木町付近にあり、現在の横浜駅一帯はまだ入江で、西口地下街などは海底だった。小松帯刀と大久保利通も生麦事件時に薩摩藩の行列にいて、事件後、程ヶ谷宿で隠蔽工作に腐心している。小松はのちに密航留学生をイギリスへ送り、鉄道敷設を推進したが、開通前に病死した。鉄道建設に反対した大久保は、開業式には出席しなかったが、数週間後に試乗して鉄道ファンに変わったらしい。なんとも激動の時代だ。
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