現代の日本は自動車産業が国の「顔」にまでなっているが、日本の車の歴史は実際には意外なほど浅い。平安時代には牛車が貴族の一般的な乗り物だったと言われるが、古代の車輪の出土例はごくわずかしかない。ざっと調べた限りでは、最古のものは奈良県桜井市の磐余遺跡群から出土した7世紀末の木製車輪の一部だった。ほかに平城京などからも車輪部材や、轂の内側にはめた約5cm幅の鉄製の円筒、釭(かりも)などが数点と、都の通りの随所に轍が見つかっている。だが、同じ車偏の漢字に「輦」や「輿」もあり、二輪の上に屋形があって人が前後で押す輦車(れんしゃ)や、屋形を担ぐ輿が同時代に使われ、いまも二輪屋台や神輿になって祭りに登場することを考えると、牛の引く牛車や雑車が、平安時代にどれだけ普及していたかは少々疑問だ。馬車にいたっては、私の知る限りでは幕末以降だろう。日本で車が使われなかったのは、坂道も雨も多く、道路事情が悪かったことと、牛馬が少なかったためだろうが、車関連の「日本語」の馴染みの薄さはその歴史を如実に物語っている。
いつから車輪の歴史に興味をもったのか忘れたが、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事で、ウルのスタンダードやオクソスの二輪馬車を見たことで、好奇心をさらにかきたてられたのは間違いない。車輪は丸太を使ったコロから始まったと言われる。ただの輪切り状態の円盤から、数々の工夫を重ねてスポーク付きの複雑な構造に発達していった。ウルの四輪付き乗り物の絵には円盤状車輪に不思議な模様が描かれていて、どういう構造なのか随分と頭をひねったものだ。現在、翻訳中の本で車輪の詳しい歴史を知る過程で、ハブの中心にあった棒状のものはリンチピンだと気づいてちょっとうれしくなった。英語のlinchpinはよく使われる言葉で、日本語では通常、「要」、つまり扇の骨を束ねる金具として訳される。それが実際には、車輪が外れないように、車軸の端に(ときには車輪の両側に)貫通するように挿す輪止めのピンのことだと理解する日本人は少ないだろう。漢和辞典や中国語辞典によると、これに相当する漢字は「轄」だった。管轄、所轄などの言葉でしか見ることのない漢字だが、このピン一本で車輪が外れるのを防ぐのだから、なるほどと思わせる意味だ。
そんなことをあれこれ考えているうちに、実際に車輪がどうなっているのかどうしても確認してみたくなった。という口実で、本当は締め切り間際で諦め半分の単なる逃避なのだけれども、しばし紙工作にふけってしまった。娘の友人が送ってきてくれた金貨チョコ、ハヌカ・ゲルトの包みがいかにも金属的フォイルで、9枝の燭台や素敵な模様がエンボスされていたので、まずはそれで二輪戦車をつくってみた。参考にしたオクソスの模型は紀元前500-300年ごろのもので、私が訳しているステップの文化よりはるかに後世の作品なので、時代考証的にはめちゃくちゃだが、とりあえず8本スポークの金ぴかチャリオットをこしらえてみた。チャリオットの定義は、2輪で、スポーク型車輪を使い、御者が立って操縦するハミを付けた馬が牽引する高速の乗り物なのだそうだ。車輪がただの円盤状だったり、椅子席があったりする乗り物ならカートと呼ぶ。ということは、兵馬俑坑の日傘を差した銅車馬はチャリオットではない。ウルの乗り物は4輪なうえに車輪が円盤状で、輓獣は鼻輪で制御されたロバとオナガーの交雑種と考えられているので、これは戦闘用ワゴンと呼ばれる。最古のスポーク型車輪は、ウラル川上流のステップに紀元前2100年ごろにあったシンタシュタ文化の墓から出土している。数年前に隕石が落下したチェリャビンスクの近くだ。ステップの車輪のスポークは12本だったと思われるが、のちにメソポタミアやエジプトへこの技術が伝わると、スポークの本数は4本または6本に減り、逆にインドや中国ではさながら光輪のように20本以上に増えている。平安時代などの車輪も21本や24本のスポーク付きだ。
私の紙模型のチャリオットには、家畜化されて間もない時代のステップの馬に、ハミと楕円の円盤状チークピースを付けてみたが、当時どんな具合に馬を車に付けていたかは不明だ。ウルの戦闘ワゴンのほうは轅が一本で、その上に手綱を通す金具があるのはわかったが、軛がどうなっていたかはわからない。
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