実際には、新聞記事にもあるように、ドイツに先立って幕末にすでにイギリスの箱館領事館が、鳥類コレクターとして知られる博物学者ヘンリー・ホワイトリーとともに、アイヌ遺骨の盗掘事件を起こしている。この事件は外交問題にも発展し、実行犯は禁固刑に処せられ、落部村から盗掘された遺骨13体は1カ月後に返還され、すでにイギリスへ送られていた森村からの3体(および頭骨か)は2年後に送り返されてきた。箱館領事のハワード・ヴァイスは罷免され、後任のエイベル・ガワー(ジャーディン・マセソンのサミュエルの弟)やパークス公使は一分銀1000枚を慰謝料として払うなどして、幕引きを図った。ヴァイス領事は、その数年前の生麦事件で薩摩藩への報復を主張したためニール代理公使と対立したことで知られる。横浜の競馬でも問題を起こして、神奈川から箱館に左遷された人だったが、イギリスに帰国後は破産宣告をしている。盗掘事件はイギリスにとって大きな失点だったのだろう。
ドイツにもちだされた遺骨の1体は、シュレージンガーという旅行者が盗掘し、その旨を民族学誌に武勇伝のように報告していた。インド、ヒマラヤなどを渡り歩いたのち来日し、1884年にオーストリア=ハンガリー帝国の横浜領事になったグスタフ・クライトナーも、アイヌの頭骨を入手するために発掘許可を申請しているが、却下されている。同じくオーストリア=ハンガリーの外交官を務めていたシーボルトの次男ハインリヒは大森貝塚を調査し、クライトナーとともにアイヌが日本民族の起源だと考えた。一方、同時期に大森貝塚を発掘調査したアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本の石器時代人はアイヌではなく、プレ(先)アイヌだと主張した。これがのちにアイヌの伝説にあるコロボックルを、彼らが遭遇した先住民の石器時代人と考える説につながったという。先日亡くなった佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』を読み返したくなる。ちなみに、クライトナーは1893年に45歳で脳卒中により死去し、横浜外国人墓地に埋葬されているようだ。『100のモノが語る世界の歴史』の縄文の鉢はハインリヒ・シーボルトが収集したものだった。
それにしても、これだけ多くのヨーロッパ人がなぜ、盗掘のような手段に訴えてまでアイヌの遺骨や起源にこだわったのか。彼らはなぜ本州に住む「平たい顔族」の遺骨収集には熱を上げなかったのだろうか。ヨーロッパ人がアイヌに関心をもち始めたのは、じつは1618年にイエズス会士ジラロモ・デ・アンジェリスが松前に渡ってアイヌに布教を試みて以来らしい。アンジェリスは当時のアイヌの暮らしについて書き記すとともに、アイヌ語の簡単な語彙集も作成し、アイヌは「白人」で、西洋人の「仲間」だと考えていたという。
幕末から明治にかけて、ヨーロッパ人がアイヌに多大な関心をいだきつづけた理由の一つがここにある。折しも、18世紀にインド判事として赴任していたウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語に古代ギリシャ語やラテン語との共通点を見出して以来、比較言語学が盛んに研究され、1889年にクチャの写本が発見されてトカラ語の存在が知られるようになり、20世紀に入ると敦煌やトルファンが探検されていた時代だ。ユーラシア大陸のはずれに浮かぶ日本列島に、印欧語族に加えられる可能性のある言語を話す少数民族がいるという仮定に(のちに否定されたが)、彼らは飛びついたのだ。1889年には聖公会の宣教師ジョン・バチェラーによる『蝦和英三対辞書』も刊行された。
いま翻訳中の本には青銅器時代の人骨の図や写真がそこかしこに掲載されている。研究者は遺跡から出土した無数の獣骨まで数え、計測して埋もれた過去を推理している。多数の骨標本があってこそ見えてくる統計値もある。そうした学問上の需要と、たとえば自分のおじいさんの骨が盗まれて、どこぞの研究室の戸棚に入っていることへの生理的嫌悪感は、どう折り合いをつければよいのか。幕末にイギリス人が返還したアイヌの遺骨は、なんと1935年に北海道大学の児玉作左衛門博士が学生と再発掘し、新たに多数の遺骨とともに収集していた。全国の12大学や博物館にいまも1600体ほどのアイヌの遺骨が研究目的で保管され、その大部分は北大にあるという。収集された副葬品も多数が行方不明らしい。遺骨の大半は身元不明だが、返還の動きや訴訟が始まっている。
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