ユキノシタは葉が食用にも漢方薬にもなり、花は可憐だが、さほど珍しくもなく、いくらでも自生する植物なので、わざわざ鉢植えにして眺めている人は少ないだろう。うちでも十数年間、繁茂したセンリョウの下に放置して冷遇していたのだが、数株を鉢に植え替え、少しばかり日当たりのよい場所に置いてやったところ、やたらに大きな葉を付けるようになった。私がそんな特別待遇をする気になったのは、ひとえにロバート・フォーチュンの本を読んだからだ。
幕末に来日した植物学者のロバート・フォーチュンは、1848年に東インド会社のためにチャノキを中国からインドへ輸送したことで知られる。もっとも、それに先立つ1835年にG.J.ゴードンが8万本の茶の苗木を送ったことが、イギリスの紅茶産業の始まりだったと、リジー・コリンガムが『インドカレー伝』のなかで書いているので、フォーチュンが紅茶の生みの親ではなさそうだ。
それでも、『幕末日本探訪記:江戸と北京』(三宅馨訳、講談社学術文庫)と題された彼の旅行記には、桜田門外の変の数カ月後に来日し、江戸にも二度滞在して王子や染井村を訪ねて回ったことなどが綴られ、当時の日本を知るうえで貴重な記録となっている。神奈川での彼の滞在先は、「古い友人で、中国のデント商会の支配人であり、ポルトガルとフランスの領事を兼任するジョゼ・ロウレイラ〔ママ〕がそこに住んでおり、私の滞在中、彼の寺の部屋を親切にも使わせてくれた」とだけ書かれている。ロウレイロはフランス領事館の置かれた慶運寺にいたと、どこかで読んだ記憶があるのだが例のごとく思いだせない。
フォーチュンは、ヘボン博士などに勧められて三ツ沢の豊顕寺も訪ね、ここでコウヤマキを見ている。かつてはたくさんの修行僧がいたというこの寺の広大な敷地は、現在は大半が豊顕寺市民の森として一般に開放されている。ネットで公開されている原書を最初に読んだので、Bokengeeと書かれたこの寺がどこなのかしばらく見当がつかなかった。コウヤマキは五重塔などの建材として重宝された樹のようで、関東では珍しかったのだと思われる。フォーチュンが見に行ったこの大木は1945年5月29日の横浜大空襲で焼失し、切り株だけになってしまったらしいことを後日知った。探しても見つからなかったわけだ。
フォーチュンの訪日目的の1つは、18世紀にアジアから導入された際に雌木ばかりがもち込まれ、実をつけることのなかったアオキの雄木を、日本で入手することだった。日本の雄木によって、「たわわになる深紅の実」がヨーロッパでも実るようになり、19世紀末にはアオキは大流行したが、その後は日本と同様、ありふれた存在になってしまったようだ。
フォーチュンが採集した植物は多岐にわたるが、その1つにヤマユリがある。江戸時代にはユリはもっぱら食料とされていたらしく、フォーチュンは野菜としてまず百合根を見ていた。横浜に居住していたアメリカの商人、フランシス・ホールと散歩にでかけた際に群生するユリに感動し、数日後、金沢方面まで遠出をした折にヤマユリの根を掘り返している。
ホールもヤマユリの球根を故郷のニューヨーク州エルマイラにもち帰った、という彼の日記の解説を読んだとき、ふと頭に浮かんだのがJ. S. サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の幻想的な絵だった。提灯をもつ2人の少女の背景に描かれていたユリは、フォーチュンかホールがもち帰った日本のヤマユリだろうか。そんな発見を娘に伝えたところ、「絵はがきもっているよ」とすぐに探しだしてくれた。なんと1998年のテート・ギャラリー展のときの購入物! よほど印象に残った絵だったのだろう。サージェントはアメリカ人だが、生涯をほとんどヨーロッパで過ごしており、1885年から翌年にかけて制作されたこの作品はテムズ川を航行中に上流のパンボーンで見た光景だった。よってフォーチュンに分がありそうだが、1873年のウィーン万博で広まったものかもしれない。
そんなフォーチュンが2年近くにおよんだ日本と中国の滞在を終えて帰国の途についたとき、「なかでもとくに気に入っていた植物で、喜望峰周りの長い船旅に委ねたくないものは、私自身が世話をしながら陸路で故郷にもち帰った。そうした1つが、愛らしい小さなユキノシタだ。その緑の葉は、白、ピンク、バラ色とさまざまな色で美しく斑になり、色づいている」と書いているのだ。彼の言う陸路は香港、スリランカに寄り、スエズからエジプト国内を移動し、地中海をまた航行してサザンプトンまでというルートで、荒海から守り、上陸地では新鮮な空気に触れさせるという念の入れようだった。
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