この建設現場は居留地の48番、49番、53〜55番に相当していた区画で、関東大震災時に大きな被害を受けた。そのうちの一軒、48番にあったのがモリソン商会で、1868年に来日したスコットランド人のお茶の検査官ジム・ペンダー・モリソンがフレーザー氏と創設したモリソン&フレーザー商会に始まり、のちに単独のモリソン商会となった。以前に横浜開港50周年を記念した1909年の『ジャパン・ガゼット』紙の特集号で、このモリソン氏が初期の横浜の社交界について語った記事がおもしろかったので彼の名は記憶に残っていたのが、来日した年が私の個人的な調査の対象外だったので、それ以上に調べたことはなかった。今回、居留地で行なわれていた演劇について再度調べた際に、たまたま彼が鎌倉の材木座にモリソン屋敷と呼ばれた広大な屋敷を構えていたことを知り、横道に逸れてまたあれこれ調べてしまった、というわけだ。
材木座の屋敷は、3,000坪を超える敷地に本宅と外国人用の貸家8軒がある壮大な規模のもので、大勢の使用人がいたようだ。お茶の検査官でなぜそれほど儲けられたのかと思ったら、モリソン商会は日本におけるダイナマイトの総代理店であったと、三田商店のホームページに書かれていた。劇場横に展示されていた往時の版画にも、「ノベル氏製ダイナマイト、并ニ暴烈藥、日本賣捌所、横濱四拾八番、モリソン商會」と紹介文が付いていた。暴烈藥は、英語の表示から察するにblasting gelatine、ゼリグナイト、つまり世界初のプラスチック爆弾のようだ。ウィキペディアによれば、国産ダイナマイトは1905年に初めて群馬県岩鼻村で製造された。前年の日露戦争では、「旅順攻囲戦における坑道戦ロシア軍の東鶏冠山北堡塁を2,300kgものダイナマイトで吹き飛ばした」とあるので、モリソン屋敷はその産物かもしれない。
モリソン家は長く横浜や鎌倉に住みつづけたのか、外国人墓地にモリソン姓の人が数人葬られている。初代のJ. P. モリソン氏は1931年まで生きて天寿を全うしたようだが、1923年の関東大震災で2人が落命している。ブランドワークス研究所の記事によれば、息子夫婦が山下町の商会で亡くなったらしい。鎌倉の屋敷も大震災で大破し、いまでは片方の門柱が残るだけのようだ。関東大震災時の鎌倉の多数の写真も見つけた。地震で脆くも崩れた赤レンガの建物の一部が、神奈川芸術劇場の一角に外壁を「モルタル塗り」、つまりセメントで固めて、上部や開口部にガラスケースを入れたかたちで残っている。
二種類の案内板の写真を撮って帰宅後に読み直したところ、この建物は明治16年にJ.P. モリソンの事務所兼住居として建てられたが、被災して二階部分が崩れ、震災後に道路建設のため西側部分を削られたが、大正15年から昭和53年までヘルム兄弟商会が所有していた。平成13年に神奈川県が重要文化財に指定し、保存工事をした、ということのようだ。この表示の下には、不可解なフランス積み(正しくはフランドル積み)の図がある。レンガの長手と小口を交互に積むと両端がギザギザになってしまうので、端をまっすぐにするには細い特別なレンガを隙間に入れないといけない、と言いたかったらしい。
より不可解なのは、横浜市都市計画局都市デザイン室が設置したもう一つの案内板だ。「関東大震災で、当初の2階建てが平屋となり、平面規模も6割に縮小されている。石灰製の目地を持つフランス積で、設計尺度はメートル法が用いられている。北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされるキーストーンが置かれている」と、首を傾げたくなるような文が連ねられていた。下にある英文のほうがはるかにわかりやすいのは、英文がオリジナルだったからなのか。
“Its construction is characterized by Flemish bond of bricks with no modern mortar but traditional lime…”とあるのは、「石灰製の目地を持つ」部分の説明だろう。英語ではこういう充填材をモルタルと呼び、その素材にlime(消石灰、つまり漆喰)が使われるか、cement(石灰と粘土の混合物を高温で焼き、粉末石膏を合わせたもの)かで区別する。それぞれ水と砂を混ぜてドロドロにして使う。英訳者が敢えて現代のモルタルと入れたのは、もう一方の案内板に、「外壁は建築当初煉瓦積みの上にしっくい塗りと想定されますが、保存工事ではモルタル塗りで仕上げています」と書かれていたことが頭にあったのだろう。こうなると、目地の話をしているのか、外壁のことなのかわからない。アスレチッククラブの創設者でもあり、彼の功績をたたえたページを見つけた彼のひ孫と玄孫が別々に連絡してきていた! これぞ小説『ロンドン』だ。先祖の足跡をたどって横浜の歴史に首を突っ込んだ私には、大いに共感するものがあった。
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