2017年7月31日月曜日

江戸時代の通貨制度

 久々に時間ができたので、これまで中途半端になっていた諸々のことがいくらか整理されたが、それと同時に読みたい本も増えて、家のなかはちっとも片づかない。『横浜市史稿』という昭和6〜8年刊の11巻本まで、置き場所も考えずにヤフオクで購入してしまい、断捨離に逆行している。何巻かはデジタル化されているが、やはり手元に紙の本があればこそ発見できることもある。  

 最近、幕末の通貨事情についてかなり調べたところ、どうしても本物の貨幣が見たくなり、これまたオークションに手をだしてしまった。以前に富岡八幡宮の骨董市で寛永通宝などの銭貨は買ったことがあったが、「ペニー貨ほどの厚さの良質の銅でできており、縁が厚目になっているが、仕上げはなかなか美しい」と、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に書かれていた天保通宝はもっていなかった。幕末に諸外国とのあいだでさまざまな問題を起こす原因となった一分銀も、どうしても現物を見てみたかった。 

「一分銀は三枚でも一ドルより目方が軽いのだが、日本人はこの国では一ドルと一分銀が等価なのだと主張する。となると、われわれは三倍以上も支払って買い物をすることになる。彼らが言うには、鉱山はすべて政府のもので、埋蔵する金銀は木や石と同じようなものだが、政府がそれを鋳造して刻印すると、その銀塊に価値が生ずるのだから、外国人がもち込む硬貨はすべて溶かして一分銀に改鋳しなければならない」。アメリカの総領事ハリスのオランダ語通訳として来日したヒュースケンは、日米修好通商条約の締結に向けて下田で交渉をつづけていた一八五七年の三月一日の日記にこう書いた。「商業は血液であり、一国の生命の大いなる源だ」と書きつつ、ヒュースケンはこの進歩や文明が本当に日本のためになるのかと、自問もしていた。暗殺事件ばかり有名だが、日記を読むと、彼やハリス、通訳の森山多吉郎の苦労がよくわかる。  

 江戸時代の通貨制度はあまりにも複雑で、ちょっとかじった程度ではほんの一部しか理解できない。重要な点の一つは、金貨と銅貨が枚数で数えられる計数貨幣だったのにたいし、銀(天保丁銀、保字銀)は重さで価値が決まる秤量貨幣で、「金貨一両=銀六〇匁」を基準としていたことだ。ところが、幕末には財政難のため、重さ一五匁(もんめ)の銀に相当する価額の計数貨幣として天保一分銀が同時に発行されていた。幕府は開港前、あれこれ理屈を並べて、この軽い一分銀が一ドル相当だと主張した。このドルは当時の世界通貨で、スペインの新大陸植民地であるヌエバ・エスパーニャのポトシ銀山の銀を使って大量に発行された、レアル・デ・ア・オチョ、通称ピース・オヴ・エイトという大型銀貨のことで、日本ではメキシコ・ドルとか洋銀と呼ばれたものだった。最終的にハリスに押し切られ、100ドルが一分銀311分相当という交換率になったが、洋銀のほうが純度は若干低かった。一分銀が不足したためか、品質を同じにするためか、おそらくはその双方の理由から、洋銀をそのまま一分銀に鋳直したものが、安政一分銀となった。 

 『100のモノ』の「ピース・オヴ・エイト」の章には、この硬貨の真ん中に大きな穴を開けて、打ち抜いた中身は小銭として使い、外側はシリング貨として使用していたオーストラリアの事例が紹介されており、そのアイデアに笑ったことがあったが、日本でもこれを一分銀に吹き直していたとは、ついぞ知らなかった。幕府は改鋳費用として、6%の手数料を両替時に差し引いていた。  

 実際に手にしてみた天保一分銀は、画面から想像していたよりはるかに小さく、安政の一分銀にいたっては横幅がさらに狭く、わずかに軽い。古銭のサイトを見ると、周囲に配置された桜のなかに、上下が逆さの「逆桜」が裏表一つずつあり、その位置によって取引価格も変わるとか、側面の処理が異なるとか、文字の書き方でも値段が変わるとか、細々とした鑑定ポイントが書かれている。私にはそういうマニアックな趣味はないので、150年以上前の銀貨を手にしただけで、充分にうれしかった。ついでに洋銀のほうも、eBayで1753年のピラー・ダラーを破格値で競り落としたはずなのだけれど、無事に届くかどうか。天秤があれば、一分銀三枚と自分でくらべてみたいところだが、これ以上は無駄な散財はしまいと自分に言い聞かせ、掛け算で我慢することにした。  

 前述の『横浜市史稿』産業編によれば、「洋銀一箇は一分銀三箇と取替へるべく幕府より布告された。併し相對取引は二分前後を以て行はれたと云ふことである」。相場はつねに一分銀高だったのだ。ところが、外交官だけは条約で定めたレートで一定額を交換できたため、それによって潤った人びともいたという。  

 また、一分銀が15匁相当として4枚で金貨一両と交換できたため、開港当初は金銀比価が世界の相場といちじるしく異なり、それに付け込んで半年で30万から40万両ほどの金が流出したと考えられ、オールコックなどはこれが外国人への悪感情につながったと主張した。実際にはオールコックらの指摘を受けて、開港の翌年1860年5月には純金量が天保小判の三分の一の万延小判が発行されて流出は食い止められている。だが、金の流出以上に、開港によって大量の外貨が一部の人びとの懐に流入し、次々に新貨が発行されて貨幣価値が下がってインフレになり、銅銭の中国への大量密輸による混乱が起きたことなどが、社会を根底から揺るがしたらしい。貨幣こそ血流ということか。

 私のささやかなコレクション。右下は清の古銭

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