岩瀬忠震は、1858年7月29日にポーハタン号上で井上信濃守清直とともに日米修好通商条約を締結した人だ。つまり違勅調印と糾弾されつづけた行為の当事者である。調印に先立って孝明天皇の勅許を得るために、口下手な堀田正睦が上京した際には、能弁な岩瀬が助太刀する予定だったが、官位が低すぎて実現しなかったという。一年以上におよんだ交渉の矢面に立ったのは下田奉行だった井上で、ハリスやヒュースケンの日記には「信濃守」が頻出する。井上の兄で、奈良奉行時代に朝廷に強いパイプをもっていた川路聖謨も上京したが、勅許は得られなかった。幕府はそのままアメリカにつづいて、オランダ、ロシア、イギリス、そしてフランスとも次々に条約を結び、岩瀬はそのすべての調印にかかわる活躍をしたが、一橋派であり、弁が立ちすぎたのか、井伊直弼に睨まれて安政の大獄で永蟄居となり、1861年に42歳で病死した。
こうした幕末の重要な交渉にほぼかならず登場するのが、Yenoskyとハリスに呼ばれた森山栄之助(多吉郎)というオランダ通詞だった。「森山は気取った滑稽な作法の陰に、実際的かつ鋭い常識を限りなく秘めていた」と、オリファントも前述の本に書いている。「実際、彼はタレイラン風の外交官で、つねに穏やかに微笑み、しがない通訳に過ぎないという印象を与えようとしていたが、その人当たりのよい慎み深い態度からも、すべてを思いどおりに運ぼうとする秘めた野心と、みずからの能力へ揺るぎない自信が容易に見て取れた」
長崎生まれの森山はオランダ語が堪能なだけでなく、早い段階から英語も独学しており、1845年には浦賀で日本人漂流者を送り届けにきたアメリカ捕鯨船マンハッタン号との交渉を、片言の英語と身振り手振りでやってのけた。その後、ラナルド・マクドナルドというアメリカ先住民チヌーク族との混血青年が、自分のルーツを求めて極東の日本へ密入国してきた好機に飛びついて、通詞の仲間14人で英語を学んだ。「学習は、大悲庵の座敷牢の格子を挟んで行なわれた。マクドナルドが牢の中で、英語を音読すると、格子の外側に並んで座っていた通詞たちは、一人一人順番に音読した。マクドナルドは、その都度発音を訂正し、そうして出来るだけ、彼が覚えた日本語でその意味などを説明した。それでもどうしても文字に書かなければ理解できないような時には、栄之助が中に入って蘭英辞書で確認したり、紙に書いたりして通詞たちに回覧させた」(『幕末の外交官森山栄之助』)。こんな授業なら、誰も居眠りはしなかっただろう。だが、7カ月後にはアメリカ軍艦プレブル号が捕鯨船乗組員らを引き取りにきたため、マクドナルドも帰国してしまった。船員らが長崎で虐待されていると噂されたあげくの来訪だったので、一歩間違えれば大事件に発展したところを、森山が覚えたての英語で交渉し、うまく乗り切ったという。
森山はその後、日米和親条約、日米修好通商条約をはじめ、諸外国との条約締結で主席通訳官となり、プロイセンとの条約時にはヒュースケンとともに苦労して案文をつくった。この交渉は難航し、岩瀬のいとこで外国奉行だった堀利煕が謎の切腹を遂げ、その一カ月後にはヒュースケンが暗殺され、翌月には坂下門外の変が起きた。このころから攘夷の嵐が本格化したのだ。オールコックは『大君の都』で森山を「聡明で、おそらくその他どんな役人よりも信頼されている」と評しており、彼に絶大な信頼を置いていたことで知られる。賜暇で一時帰国した際には、文久遣欧使節の通訳として森山の派遣を依頼し、ヨーロッパまでの船旅を共にしたほどだったが、その森山も帰国後はしばらく身を隠さなければならなかったらしい。諸外国の代表とこれだけの信頼関係を築けた幕吏が、その後も外交の窓口にいれば、日本の歴史は変わっていただろう。
オールコックは新たに外国掛に就任した老中の間部詮勝や脇坂安宅が、背後に7人の外国奉行を控えさせ、自分たちに「聞いたことを理解させるか、何はともあれその意味を説明させ、ときにはどんな返答をすべきか提案させる」様子を皮肉り、さながら『ガリヴァー旅行記』の「叩き役」のようだと著書に書いた。上の空の主人の頭や耳を、膨らませた膀胱に少量の豆などを詰めて殻竿のように棒にぶら下げたものでそっと叩いて注意を喚起する従者のことだ。イギリスなどの国々が幕府に不信感をいだいたのは、信頼できる交渉相手が次々にいなくなったことが最大の原因だ。こういう「叩き役」は現在も国会あたりに多数出没している。こうしてまた停滞から混乱に揺れ動くのだろうか。
ヒュースケン日記(英語版)にあった彼の下田御用所のスケッチ
『幕末の外交官 森山栄之助』
江越弘人著、弦書房
ガリヴァー旅行記にでてくるラピュータの叩き役
@The University of Adelaide
0 件のコメント:
コメントを投稿