会社に入って初めて触ったパソコンも、起動するのに8インチ・フロッピーを何枚も出し入れしなければならない、こういう太ったCRTモニターのパソコンだった。私はインターネットが完全に普及する前の1995年末に退社したのだが、World Wide Webというものが今後は世の中を変えるのだと、ITに詳しい同僚たちからよく聞かされていたので、その後の大変化にもなんとか対応できたのだろう。
1年ほど失業保険とアルバイトで凌ぎながら翻訳学校に通い、そこで出会った鈴木主税先生に弟子入りし、牧人舎の一員となった。このころ私がもっていたのは、会社員時代に買ったトラックボール付きのマックのノートパソコンで、ウィンドウズとのファイルの互換性が非常に悪かった。使わない東芝のダイナブックがあるからと、無償貸与していただいたのはじつにありがたかった。
当時はまだパソコン通信の全盛期だった。認知症の祖母の近況を、母のきょうだいたちとパソコン通信で連絡し合っており、それを「綾子さん通信」と呼んでいた。電話回線に繋ぐと「ピーヒョロヒョロ」と宇宙との交信のような音が鳴るもので、貧乏暮しの私はおもにメールの送受信時にしか接続せず、毎回、電話のそばまで行って祈るような気分で使用していた。何かを検索しようにも、当時の検索機能はお粗末で、どこに分類されているのかわからなければ、調べようがなかった。グーグルが使えるようになったときは、白い画面に思いついた言葉を打ち込めばよいという発想が画期的で、感動したのを覚えている。とはいえ、仕事で本格的にインターネットが使えるようになったのは、常時接続しても破産しなくなったここ十数年のことだ。文字列にして入力することなど、検索のコツについては、鈴木先生の弟子仲間から多くを学んだ。塩原通緒さんが、害虫駆除の仕方までグーグル検索するのを知ったときは、目から鱗が落ちた気がした。仕事の調べ物だけでなく、日常のあらゆることに使えるのだ。
牧人舎のホームページができたのは、グーグルが誕生して間もないころだった。翻訳の仕事は、ただ外国語がわかればできるものではなく、それを読みやすい言葉で書く作文力が要求される。自分でもある程度文章が書けなければ、翻訳はできない。鈴木先生は文章を書く訓練が必要と考えておられたのだろう。「どんなテーマでもいいから、とにかく書いてみなさい。かならず自分の力になるから」と言われて、ホームページの今月のエッセイに寄稿するようになったのは、1999年12月のことだった。ちょうど祖母を亡くしたばかりで、仕事は翻訳見習いでしかなく、子育てプロのお母さんたちのあいだで私は浮いていたので、エッセイの題名は「コウモリ通信」とした。私は文学少女でもなかったし、国語は物理と同じくらい苦手科目の一つで、最初のころは書くテーマを考えるだけでも苦労していた。
鈴木先生はその10年後に亡くなられ、牧人舎の活動そのものも先生の晩年には縮小したが、ホームページだけは、立ち上げ時からずっと管理人を務めてこられた野中邦子さんが運営をつづけてこられた。途中、ほんの数カ月ほど更新がなかった時期はあったものの、20年近くにわたって毎月、新刊の紹介やエッセイの入れ替えを、ご自分の翻訳の仕事の傍らこなしてこられた。思いついたときだけ、暇なときだけ更新するのではなく、定期的につづけるのは簡単なことではない。私はただそのご好意に甘えて、月末になるとエッセイを書いて送ってきた。長年つづけてきて、習慣化されたことが、今回でおしまいになる。牧人舎そのものが店じまいとなるのだ。最終回のこのエッセイは、「その229」となるようだ。
ここ10年間はSNSも普及して、音信不通になっていた友人・知人の消息を知り、連絡を取るのは容易になったが、それまでは私の「コウモリ通信」をネット上で見つけて読んだと連絡をもらうことが何度かあった。発信しつづけたおかげで頂戴したお仕事もいくつかあるし、書いた内容について問い合わせをいただいたこともある。最初のころは、誰が読むかもわからないネット上で発信することへの気後れもあって、気軽に読める当たり障りのないことを書いていた。個人情報をどこまで書くか、宗教や政治の話題はどう対処すべきなのかなど、自分なりに試行錯誤をして少しずつ書ける範囲を広げてきた。これだけ多くの情報がネット上にあふれるようになったいま、誰にでも書けて軽い笑いを誘うだけの、暇つぶしどころか、人様の時間を奪うだけの文章をこれ以上私が増やしても仕方がない。途中からそう思うようになり、万人受けはしなくても、私にしか書けないテーマを選ぶようになった。それが高じて、近年はやたら歴史テーマの、それも非常にマイナーな話題が多くなったので、以前はかならず読んでくれていた娘からも、「面倒臭くて読んでいない」と、言われるようになった。
「コウモリ通信」を始めたころはまだ小学生で、よくイラストも描いてくれた娘は、いまではちょっとした絵本作家になり、今春にはボローニャのイラストレーター展で入選し、結婚して一児の母にもなった。私同様、仕事と育児を両立させなければならない娘は、締め切りに追われててんやわんやの毎日を送っている。産後八週間で職場復帰しなければならなかった私は、自宅でピアノを教えていた母と、大勢のベビーシッターに助けられながら子育てをした。恩返しはなかなかできないので、せめてもの罪滅ぼしで、いまは孫の面倒を週に3日ほど数時間ずつ引き受けている。
最終回の「コウモリ通信」を書くことで、翻訳業に転職してからの20年余りを振り返ることができた。数えてみたら、牧人舎時代に部分訳・下訳した本は21冊、共訳または自分の名前でだしてもらったものが4冊、「これをもって出て行きなさい」と追いだされ、独立するきっかけとなったフェイガンの『古代文明と気候大変動』以降の訳書が25冊になった。牧人舎時代の友人の紹介で始めたハーレクインも10年間で合計27冊訳した。娘の大学の入学金を工面すべく、牧人舎時代に知り合った編集者を拝み倒して翻訳させていただいたアマルティア・センの『人間の安全保障』は、その後も私の懐具合の厳しいときを見計らったように重版してくれ、先日も10刷の連絡を頂戴した。この四半世紀、フリーランスで曲がりなりにも生きてこられたのは、牧人舎のおかげなのだ。鈴木先生、野中先生、本当に長いあいだお世話になりました。そして長年、「コウモリ通信」を読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
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