2019年7月30日火曜日

「ペリーの白旗」問題

 以前からたびたび目にして気になっていた「ペリーの白旗」問題について、事実関係を確認しておかねばと、ホークスの公式記録である『ペリー艦隊日本遠征記』や通訳のウィリアムズが書いた『ペリー日本遠征随行記』などを読んでみた。砲艦外交を象徴的に語るエピソードとしてよく引き合いにだされるものだ。  

 急遽交渉に当たらされた浦賀奉行所の与力の香山栄左衛門がペリーから、いざ戦争になって降伏したい場合に掲げる白旗まで二旒渡されたとする説で、そのことを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだで論争がつづいている。長くなるのでここでは結論だけ書くが、アメリカ側の代表的なこの二つの記録を読むだけでも、当時の部外者の憶測を、後世の歴史家が真に受けた結果であることは明らかなはずだ。ペリー側は戦意がないことを意思表示するために測量船に白旗を掲げ、沖合に停泊中の船を幕吏が訪ねる際も、朝、艦隊に白旗が掲揚されるのを確認してからくるようにと説明し、香山も同様の趣旨を繰り返しているからだ。『ペリー艦隊日本遠征記』には、随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた、船尾に星条旗、船首に白旗を掲げた測量船が遠くに富士山の覗く浦賀湊の沖に漕ぎだす挿絵もある(牧人舎のエッセイ時には船首・船尾を逆に書いていたので訂正)。  

 ペリー艦隊に関するこの二冊の本には、白旗問題を別としても、驚くような情報が満載されていた。浦賀での応接を拒み、強引に羽田沖付近まで入り込んだペリー艦隊を食い止めるために、再び交渉の窓口に立った香山は、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)の午後になって、ほとんど思いつきで「神奈川の南にある横浜という小村」に小舟で乗りつけて視察することを提案した。「小村のそばにある空き地で、いまは収穫が期待できそうな麦畑となっている場所が、応接に適した場所として選ばれた。そこにたどり着く前に、村のなかの家を三、四軒、壊せば、新たに必要な建物をつくるための場所が確保できるだろうと、こともなげに提案された」と、ウィリアムズは書いている。デ・コーニングの『幕末オランダ商人見聞録』の描写もこれとさほど変わらない。綿繰り機が使われていたことや、生垣の椿が満開だったこと、大きな墓地があって、墓碑銘か卒塔婆に漢字のほか梵字が使われていることにも目を留めている。現在の横浜中華街付近にあったこの墓地は、1862年の地図にもまだ描かれている。  

 つづく2日間で幕府の海防掛は横浜沖の測量と現地を視察し、「右掛り一同徹夜払曉まても談判評決之上、則横浜を応接所と決し」、2月1日には月番老中だった松平忠優から、浦賀沖は波が荒いため、横浜で応接する旨の通達が海岸警備の諸大名にだされている(幕末外国関係文書之五)。しかもこの日、忠優は実際の交渉担当者たちに、「応接の事一々皆て老中に請ふなかれ。もし之を老中に請ふ、老中又之を前納言[斉昭]に乞はざるを得ず……後日の咎は老中之に任せんと」(『開国起源安政紀事』)と指示し、参与となって幕政に口出ししていた水戸の斉昭を牽制し、条約交渉を推し進めたのだ。このとき応接地として横浜が選ばれなかったら、後年、神奈川開港に向けてハリスと折衝するなかで、対岸の横浜を含めてはどうかとハリス側から提案されることは間違いなくなかっただろう。横浜はそれほど無名の小村だったのだ。  

 横浜に上陸したペリー一行が最新の科学技術を披露して見せた際の笑い話は随所に書かれているが、小型蒸気機関車のエピソードはなかでも傑作だ。「日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、客車の容量まで身を縮めるのは無理なので、屋根の上にまたがった。威儀を正した大官が、丸い軌道の上を時速20マイルの速度でゆったりした長衣をひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は少なからず滑稽な見ものだった」(『ペリー艦隊日本遠征記』、オフィス宮崎訳)。別の随行画家であるピーターズの挿絵には残念ながら、試乗する役人は描かれていない。  

 日本国内のこれら諸々の出来事はもちろん非常に興味深く、いずれじっくり読み直してみたいが、ちょうど大航海時代の歴史を訳していた私にとっては、むしろペリー艦隊が日本本土にやってくるまでの航海の記述がおもしろかった。艦隊と言っても、ペリーは1852年11月にヴァージニア州ノーフォークを両側に外輪がある蒸気フリゲート艦ミシシッピ号たった一隻で出発している。当初は12隻の艦隊となるはずだったのが、いろいろ手違いがあったようで、香港と上海で集結できるだけの船を揃えて、日本に向かった。通訳のウィリアムズは、4月にペリーが香港に到達したのちに初めて手配されているので、彼の手記には当然ながらそれ以降のことしか書かれていない。  意外に知られていないことだが、極東にくるまでこれほど時間がかかったのは、ペリーが大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋を通ってきたからなのだ。スペインのマニラ・ガレオン船は江戸時代初期から太平洋を行き来していたので不思議だが、アメリカがカリフォルニアを獲得したのは、ペリー自身がミシシッピ号で参戦した米墨戦争以降のことであり、当時はまだパナマ鉄道も開通していなかった。アメリカ東海岸から太平洋にでるには、南アメリカ南端のホーン岬かマゼラン海峡を通るしかない。このルートをたどったのが、江戸初期に来日したウィリアム・アダムズの一行で、ペリーも訪日前に彼の手記を研究していた。アダムズの船は航海の途中で寄ったハワイ諸島と思われる島で乗組員を殺され、死線をさまよいながら大分に漂着した。『白鯨』の元となった実話もこの航路をたどり、1820年にアメリカ東部のナンタケット島を出港した際には、船員たちは2年半は帰れないことを覚悟していたという。ペリーにしてみれば、そんな危険を冒すつもりはなかったのだろう。  

 大西洋・インド洋周りの航路はその点、大航海時代から探索され尽くし、潮流や恒常風をうまく利用できる航路沿いに、いくらでも補給基地が整備されていた。ナポレオンが流刑されたセントヘレナ島やモーリシャスのような、大海の孤島のようなところですら、さながらガソリンスタンドのように、水や食糧だけでなく、石炭までが用意されていたのだ。ミシシッピ号はこうした寄港地で500トンほどの石炭を積んでおり、効率よく機走するには1日当たり26トンが必要だったという。風と海流が利用できるときは外輪の水掻き板を外し、装着する枚数も調整していた。ペリーが日本本土にくる前に琉球と小笠原諸島に寄ったのは、こうした寄港地を確保するためで、「無人島を石炭置場に」という要求は、日本では当時ただ無人島と呼ばれていたボニン諸島、つまり小笠原を石炭補給基地にすることだったのだ。当時、日本では石炭は九州などごく一部でしか使われておらず、蒔水給与令からもわかるように、外国船に提供するつもりだったのは、帆船の捕鯨船上で皮下脂肪から鯨油を採取するための釜炊き用の薪か木炭だったので、交渉に当たった幕吏もどのくらい事情を理解していたのか怪しい。艦隊の食糧の一部は寄港地で手に入れる生きた四つ足動物であり、小笠原にはすでにハワイなどからの移住者が放牧したヤギが大繁殖しており、ペリー艦隊も牛と羊、ヤギを残している。数年前にこれらの子孫のヤギが島の生態系を崩していたため駆除されたことは記憶に新しい。肉を食べず、すべて人力で賄っていたに等しい江戸時代までの日本で、黒船の来航はまさに頭を殴られたような体験だったのだろう。
 

ハイネの石版画「江戸湾浦賀の光景」
ネットオークションで見つけ、わずか数千円でフランスから購入した。

0 件のコメント:

コメントを投稿