同時に、すでに遅い時間だったが、これまで何度も崩し字を読んでくださった私のFB友のY氏がまだオンラインであるのに気づき、失礼とは思いつつメッセージを送ってみた。なにしろ、私に読めた文字は「公方様と右大将」くらいしかなく、買うに価する内容か判断がつかなかったのだ。すると、間髪をいれず、ネット上の画像から判読できる限りの内容を読み取って、宛名がないことは気なるが、「買うべきでしょう」と力強い一押しをくださった。宛名がないためか、1万円の即決価格という設定であるにもかかわらず、誰も入札していなかったのだ。お返事を頂戴してすぐさま落札したのは言うまでもない。170年ほどの歳月を経た書状が届いたときは、深い感動があった。
その後、Y氏の古文書教室のお仲間の方も判読に力を貸してくださり、ほぼ全文を読むことができた。さらにだいぶ経ってから、岩下哲典先生にも読んでいただく機会があり、以下のように釈文を書いてくださった。
二月九日付松平忠優書状(宛所欠)
(釈文:翻刻文)
御状、令披閲候
公方様 右大将様、益
御機嫌能被成御座候
之間、可被心易候、将又
弥無夷儀、御遵行之由
珍重之事候、随而
小杉紙一箱、被懸芳意
過分之至候、恐々不宣
二月九日
松平伊賀守
忠優(花押)
(宛所欠)
読み方も次のように教えていただき、「基本的には、老中のルーティン業務(将軍・継嗣と大名との取次)に関わって、小杉紙(鼻紙)一箱をもらったお礼の書状」で、「相手は比較的格下」だろうとも教えていただいた。
御状(おんじょう= お手紙)、披閲(ひえつ)せしめ候。
公方様(12代将軍家慶)、右大将様(後の13代将軍家定) 益(ますます)
御機嫌能(ごきげんよく)被成(なられ)御座候
之間、可被心易候(こころやすかるべくそうろう)、将又(はたまた)
弥(いよいよ)無夷儀(いぎなく)、御遵行之由(ごじゅんこうのよし)
珍重之事候(ちんちょうのことにそうろう)、随而(したがって)
小杉紙一箱、被懸芳意(芳意にかけられ)
過分之至候(かぶんのいたりにそうろう)、恐々不宣
忠優の名で老中だった嘉永元年10月から安政2年8月にかけての期間で、将軍(公方様)の世子(右大将)が定まっていた時代となると、家慶が嘉永6年6月に熱中症から心不全で死去するまでであり、書簡の日付から、嘉永2年から同6年のいずれかの年の2月に書かれたことはすぐにわかった。押印がなくて花押のみであることや、「恐々不宣」という結語からも宛先は「格下」なのだろうと、素人にも思われた。
しかも、岩下先生は「左端(「奥」の方)に墨の後が残っており、「殿」の最後の一画と思われ」、「出所を秘匿するために、最近切断したもの」ではないか、と推測しておられた。左側は確かに、切れ味の悪い刃物で誰かが切ったと見えてガタガタしていたが、切断面はすでにその他の部分と変わらず茶色く変色していた。ただ、じっくり見た甲斐あって、右側の上下の隅には押しピンの跡らしきものが残っているのに、左側にはそれがないことが判明した。つまり、いずれかの所有者がしばらく、この書状を壁に貼っていて、その後、宛名部分が切断されたのだ。これぞ、モノが語る歴史だ!
「御状」が将軍と世子に見せるようなものであったことや「ますます御機嫌能く成られ」、「御遵行の由」が「珍重の事候」などとあることから、取り次いだ手紙は好意的に受け取られていたことが察せられる。その労にたいしてもらったのが鼻紙というのが、現代的な感覚からは苦笑したくなるが、将軍から頂戴したならティッシュでも貴重だったのだろう。
出品者の方から、もともと京都の古物商から入手したという経緯も伺い、個人的にはこの条件で思い当たる人物と出来事があり、かりに私の推理どおりだとすれば、貴重な発見物となるのだが、「慎重に検討する必要がある」という岩下先生のお言葉に従うことにしよう。いずれ上田の博物館に寄贈するつもりなので、それまでにもう少し解明できれば嬉しい。
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