2020年12月10日木曜日

『パサージュ論 I:パリの原風景』

 じつに遅まきながら、ようやくヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論 Ⅰ:パリの原風景』(岩波書店)を図書館で借りてみた。これまで訳書のなかでたびたびパサージュ論について言及されていながら、その場しのぎでごまかしていたが、今回の仕事で再びかなり突っ込んで取り上げられていたため、ついに読んでみたのだ。  

 私が最初に出合ったのは、『「立入禁止」をゆく』(ブラッドリー・L・ギャレット、青土社)だったように思う。ただ、この著者の関心はむしろ、ベンヤミンが言及していたナダールの地下水道の写真などにあったので、日本語ではアーケード街としか訳しようのないパサージュの意味は、よくわからないままだった。アーケード街というと、いかにも戦後の日本各地につくられたショッピング街が思い浮かべてしまう。船橋の本町にもそんな一角があったし、中野サンモール商店街などはいまも健在だ。うちの近所でも、弘明寺や大通り公園のところの横浜橋商店街など、漬物屋や八百屋、洋装店などが並ぶ昭和的な光景がまだ見られる場所がある。  

 しかし、ベンヤミンの言うパサージュは、1822年以降の15年間に、織物取引が盛んになり、大量の商品在庫が店に常備されるようになった時代に、その大半がつくられたというパリの高級商店街なのだった。最初のガス灯はこうしたパサージュに登場したのだという。その発展には、ガラス天井を支える鉄骨建築の始まりが欠かせず、にわか雨に降られても安全な遊歩道に、天井から差し込む自然光が、ファンタスマゴリー(魔術幻灯、幻像空間)の効果を与えたというものだった。うちにも子供のころは幻灯機というスライド上映する装置があったが、本来はそれを使った幽霊ショーのようなものを指す言葉のようだ。  

 この時代に、ヨーロッパの主要都市でたびたび開かれ始めた万国博覧会について、ベンヤミンはこう書く。「万国博覧会は幻像空間を切り開き、そのなかに入るのは気晴らしのためとなる。娯楽産業のおかげで、この気晴らしが簡単にえられるようになる。娯楽産業は人間を商品の高みに引き上げるやり方をするのだから。人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる」。立入禁止の本でギャレットが訴えていたのは、商品化された観光地への抵抗だったし、人間が商品化されることの疎外論については、トリストラム・ハントが『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)で書いていた。「疎外」という訳語は、どうも意味が伝わりにくく、理解されていないと思いながら訳した記憶がある。  

 この本では、オスマンのパリについても何度か言及されていた。「パリ発生[ママ]の地シテ島について、人々はこんなことを言った。オースマンの手にかかった後は、教会と病院と役所と兵営しか残っていない、と」。シテ島から立ち退きさせられた多くの住民のことだ。私たちがパリだと思っている光景は、オスマン以降につくられた顔なのだ。こうした現象は世界各地の都市でその後も繰り返され、スジックの『巨大建築という欲望』(紀伊国屋書店)でも上海の開発に多くのページが割かれていたし、いま取り組んでいる本でも、やはり上海の途方もない発展の話が語られる。 「エンゲルスは、バリケード戦における戦術の問題に取り組んだ。オースマンは二つの方法をつかって、バリケード戦の防止に努めた。道路の広さはバリケード建設を不可能にするだろうし、新しい道路は兵営と労働者街とを直線で結ぶことになる。同時代の人々は、彼の事業を〈戦略的美化〉と名づけた」。ベンヤミンのこの記述を読んで、私の脳裏に浮かんだのは青山通りや外苑東通り、靖国通りなどだ。スジックもベルリンやパリの都市計画について、同様のことを書いていた。  

 このように、ざっと一読した程度ではとうてい把握しきれないことが、この1巻だけでも書かれていたので、古本を入手してまた後日、読み返してみることにした。ベンヤミンの作品などは、充分に時間のあった学生時代に、せめてその概略だけでも知っておきたかった。ただ、体系的に書かれた書ではなく、彼の膨大なメモ書きが死後に編纂されたものなので、そこに書かれた断片の意味を理解できるようになるまでは、読んでもちんぷんかんぷんだっただろうか。

 弘明寺かんのん通り商店街

 横浜橋商店街

明治安田生命ビルと明治生命館のあいだを屋根で覆ってできたパサージュ「MY PLAZA」。2021年6月撮影。

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