2021年2月14日日曜日

跡見花蹊

 少し前に跡見学園女子大学の創設者である跡見花蹊の日記が、同大のサイトで読めることを発見して、細切れ時間に少しずつ目を通し、ついでに伝記3冊も図書館で借りてざっと読んでみた。跡見花蹊その人に関心があったというよりは、彼女の弟子の一人について調べたかったのだが、かなり意外な事実がわかったので、とりあえずメモをしておく。 

 3冊の伝記のうち、『跡見花蹊先生実伝:花の下のみち』(藤井瑞枝編、1919年)と『跡見花蹊女史伝』(高橋勝介著、1932年)はともに、生誕150周年の1990年に「跡見花蹊伝」編集委員会が2冊をセットにして非売品として復刻刊行したもので、横浜市立図書館に寄贈されていたために読むことができた。3冊目の『跡見花蹊:女子教育の先駆者』(泉雅博ほか著、ミネルヴァ書房)は2018年の刊行で、当然ながら、いちばんよくまとまっており、とくに私が知りたかった京都時代の花蹊の驚くべき一面はこの本から初めてわかった。

 これらの伝記や「跡見花蹊日記」にある略歴によると、花蹊の生家は摂津国の木津村(いまの大阪市浪速区・西成区)という大きな村の庄屋だったが、花蹊が生まれたころには没落していた。高橋勝介氏は実家の事情をこう書く。父の重敬が「僅かに寺子屋の収入に依り一家の飢を支へて居つたが、一心に家運の再興を望み、郷土の農民と伍し空しく老い朽ちることを潔しとしなかった。機会だにあらば何とか世の中に躍進せんものと祈って居った。時恰も幕府の威令漸く衰へ尊王攘夷の思想全国に漲り来り、公卿の間にも傑出した人物が現れはるゝやうになった」。尊王攘夷運動の本質がここに垣間見えるようだ。そして、木津村の願泉寺に沢家の娘が嫁いできたことから、跡見家には再び運が向いてきたという。

 2018年の伝記は、この住職の妻を沢宣嘉の娘だとしており、彼が甥に当たる姉小路公知を跡見家に紹介したのだとする。日記には確かに沢主水という人物が度々登場する。となると、八月十八日の政変後に「七卿落ち」した一人で、のちに長崎府知事としてキリシタンの大弾圧をした公家のことだが、沢宣嘉は1836年生まれで、甥の姉小路公知と4歳しか違わず、遅くとも1850年代に、木津村の寺の住職に嫁ぐほどの年齢の娘がいたとは思えない。 

 2005年に跡見学園の130周年を記念した出版物の「第一部 跡見花蹊の創意」は、「その奥方は京の公卿石山家から入った方」としており、ネット検索すると、石山基文という姉小路家から養子に入った人物が見つかる。姉小路公知の父の公前と沢宣嘉を兄弟とする1827年生まれの人で、弟の沢宣嘉と甥の姉小路公知とともに九条関白に抗議した廷臣八十八卿列参事件に加わっていた。彼らよりやや年上とはいえ、石山基文でも住職の妻の父になるには年齢が若いので、住職の奥方はその養父の娘だろうか。

 いずれにせよ、跡見家はそれ以来、姉小路家と深くかかわるようになる。花蹊の姉藤野は、姉小路家の奥向きに入って公知とのあいだに一子をもうけ、その千重丸(公義)がのちに姉小路家の当主となる。姉小路家にはその後、花蹊の父と2人の弟も仕えるようになったが、姉小路公知その人は文久3(1863)年5月20日に御所の北東で刺客に襲われ、翌日、23歳で死去してしまう。三条実美とともに尊王攘夷派廷臣の中心人物と見なされていた公知は、その前月、摂海(大阪湾)を巡視した際に勝海舟に会い、強硬な攘夷論を軟化させていたうえに、長州と昵懇であったことが、薩摩の反感を買ったと推測されているようだ。公知の死後、花蹊は元服前だった千重丸とその妹の良子の教育係を務めることになった。

 跡見学園とは何ら関係がなく、女子教育の歴史に格別な関心があるわけでもない私が、突然このように跡見花蹊を調べ始めた理由は、以前に同大の学生便覧で「当時の門下生は関白九条幸経夫人をはじめ100人近くに及んだ」という一文を読んでいたからだ。九条幸経夫人というのは、姫路の酒井雅楽頭家の銉(いつ)姫(九条家に入って肫子、あつこ、となった)であり、上田の松平忠固の異母妹、もしくは従兄弟の娘という近親者であり、拙著『埋もれた歴史』のなかでも取りあげた謎の人物なのだ。 

 花蹊の存命中に書かれた『花の下のみち』では、門下生について説明するなかで「まづ時の関白九条幸経公の御簾中(酒井家より入輿の律君)を始とし」と述べる。『跡見花蹊女史伝』もそれを踏襲し、さらに「年猶若き一女子の身を以て関白家の師傅となったことは、女史に取っては、実に此の上もなき名誉であった」と解説していた。

 九条幸経は実際には、安政3(1856)年から文久2(1862)年まで関白を務めた九条尚忠の養嗣子で、実父は前関白の鷹司政通と言われる。跡見花蹊が幸経夫人を教え始めたのは慶応3(1867)年5月以降のことで、幸経は1859年に36歳で死去している。つまり、正確には肫子はすでに寡婦であり、かつ幸経自身は関白になったことはない。「跡見花蹊日記」の略歴は実際、「九条公より御後室に御稽古御頼みに相成」と書き、「九条幸経公御後室妙寿院様」ともなっていた。幕末から明治初めの姫路藩の記録では、彼女は妙寿院と呼ばれているが、肫子と署名した明治2年の書簡が残っており、九条邸で剃髪して暮らしていたのかどうかも、確かなところはわからない。

 九条尚忠は、「廷臣八十八卿」や薩長の尊王攘夷派が目の敵にした関白であり、辞任後、落飾して洛南の九条村に隠棲していた。だが、孝明天皇崩御後に状況が変わり、慶応3年の暮れには還俗している。姉小路家に出入りしていた花蹊が、どういう経緯で九条家の後室を教えるようになったのか、興味深い。略歴には、花蹊の漢学、詩文、書法の師であった宮原節庵(謙蔵)に芹田氏が頼んだとあり、その際、「花蹊は師の礼を以てなれは御請をするが、さなくは御請は致しませぬ」という条件で話がまとまり、「二、五、八の 御稽古日とす」という。当時、花蹊はまだ27歳だった。

 じつはその前年3月15日に、「千重丸様、准后様ぇ御児子惜みに御参り有て、 其節花蹊御供す。[……]御褒美として結構なる御 品々拝領」と、日記の略歴に書かれている。7歳の千重丸の元服前の儀式と思われ、准后は孝明天皇の女御で、九条尚忠の3女(または6女)とされる夙子、つまりのちの英照皇太后の可能性が高い。このとき花蹊がどんな役割をはたしたかわからないが、書画の話が弾んだのかもしれない。

 2018年刊行の伝記は、最初の稽古日の日記の内容を参照してこう書く。「慶応三年五月七日には、五摂家である九条家に招かれて花蹊は出掛けている。席画をし、九献の饗応を受けた花蹊は、その日宿泊までしている。当日、花蹊は九条家より後室の画の師を依頼されたものと思われる。後室とは先代九条幸経の未亡人であり、当代九条道孝の養母であった。名は九条肫子といい、播磨姫路藩一五万石の藩主酒井忠学の次女で、通称は銉といった。七月二三日の稽古始めからほぼ一〇日に二度ずつ九条邸へ出掛け、画の指南を花蹊が京にいた期間ずっと続けている」。九条家は幸経の死後、1839年生まれの尚忠の実子、道孝が、幸経の養嗣子になるという複雑な形で存続していた。道孝は、多くの資料によれば夙子の実弟で、慶応3年11月晦日には左大臣に昇進、戊辰戦争では沢為量(宣嘉の養父)に代わって奥羽鎮撫総督を務めた。

 花蹊の日記からは、このとき以降、明治3年10月7日まで3年にわたってかなりの頻度で九条家に稽古にでかけ、その都度、昼食や夕食がだされていたことがわかる。「此日昼後より九条殿ぇ上り、稽古いたし候。夕飯呼れ候て帰り候」(慶応3年11月13日の条)といった記述が最も一般的だが、「昼後、九条殿ぇ上り候。稽古致、七ッ時、姉御殿ぇ帰り候。一宿」(同4年2月28日)のように、稽古のあと「姉御殿」に宿泊することも多かった。

 これは姉藤野のいる姉小路家を指すものと思われるが、花蹊が訪れていたのは九条家のどの屋敷だったのだろうか。幕末の京都の地理に詳しくないが、ネット上で見る限り九条家は現在の御苑内にあった九条邸のほか、鴨川沿いの丸太町通り付近と、御所から東に進み鴨川を渡った先に下屋敷・別邸を構えていたようだ。どちらも御所の東北角にあった姉小路邸からは1キロほどだが、幕末の物騒な京都で日暮れに若い女性が歩きたい距離ではなさそうだ。となると御所の南の上屋敷だろうか。

 明治元年12月7日には、「此日、九条殿、九条村ぇ御引移りにて休」とあり、その一週間後に、「朝より九条村九条様ぇ上り候」とある。これ以降は、洛外の九条村まで通ったのだろうか。丸太町通りに面した九条家の別邸は、1872年に女紅場という民衆の女子教育の最初の学校ができた場所で、山本八重は新島襄と再婚する前、そこでしばらく教えていたという。  

 花蹊の日記には、姉小路公知の暗殺をはじめ、孝明天皇の崩御など、幕末のさまざまな出来事の記録がところどころにあり、そうした動乱の時代にも姉小路家や九条家をはじめ、さまざまな家に個人レッスンに出向いていたことなどがわかり、なかなか面白い。しかも、彼女はその合間に扇や団扇に書画を数十枚単位で認めたり、手本とする書画帖を作成したり、ときには幟や襖絵なども頼まれ、夜なべをして仕上げている。『跡見花蹊女史伝』によれば、「扇面一枚の料金三文から五文位で、百枚を描き僅かに四五百文に過ぎなかった」という。書画だけではない。輪講、つまり大学のゼミのようなこともしばしばやっていて、そのために読書にもかなりの時間を費やしている。九条家の後室という立場上、自由に世間にでられなかったであろう肫子にとっては、新時代の女性として、まばゆいばかりの存在だったかもしれない。 

 花蹊が東京に移った明治3年11月には、「九条様を御はしめ御弟子の御方々に東行之事申候えは、実に惜まれた」と、略歴は書くが、日記そのものは出発の慌ただしい時期にはつけられなかったと見えて、空白がつづく。明治4年7月10日にも、「終日、九条様法帖揮毫」とあり、テキストの作成を依頼された可能性がありそうだ。肫子はこの年に亡くなったと多くの資料が書いているが、墓所等はわからない。

 2005年の「跡見花蹊の創意」は九条家との関係については一切触れていない。代わりに、「花蹊──尊攘派女志士」というコラムを設けているほか、明治6年に「明治天皇の御従兄で天誅組の大将として挙兵、敗れて長州に落ちた[中山]忠光の遺児南加の入塾」に際して、花蹊の従兄二人がその挙に加わり落命している縁から、その仲子という生徒を明治天皇に引き合わせたエピソードが語られる。

 花蹊と九条家の関係は、明治25(1892)年になってまた始まるが、今回、弟子となったのは九条道孝の長男、道実の妻で、西本願寺の法主であり、探険家としても知られる大谷光瑞の妹の恵子(やすこ)だった。九条恵子は跡見の校友会名誉会長を務め、肫子のように、花蹊から個人レッスンを受けていたが、途中で画のほうはやめて、書のみの稽古にしてくれと依頼したようだ。画の稽古を熱心につづけた肫子のことを、花蹊は思いだしただろうか。尾形光琳を庇護し、酒井抱一を輩出した酒井雅楽頭家の人びとは、忠固本人も母の隆も、弟の西尾忠受もみな書画を嗜んでいた。写実的で繊細な花鳥画を描く花蹊から、これほど熱心に習った肫子の画作品はどこかに残っていないのだろうか。

 余談ながら、大谷家と九条家のあいだには3組の夫婦がいて、大正三大美人の1人とも言われる九条武子は道孝の五男、良致の妻であり、道孝の三女、籌子(かずこ)が大谷光瑞の妻となった。武子と籌子は親友で、やはり女子教育に尽力して京都女子大の創設にかかわったという。

『跡見花蹊:女子教育の先駆者』(泉雅博、植田恭代、大塚博著、ミネルヴァ書房)

左:『跡見花蹊女史伝』高橋勝介著、
右:跡見花蹊先生実伝:花のみち』藤井瑞枝編、「跡見花蹊伝」編集委員会

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