2021年2月7日日曜日

正字

 暮れからずっと諸々の校正作業をしてきたので、息切れ気味だ。翻訳ならまだ知らないことを調べる楽しみがあるけれど、ひたすら間違いを探す作業は何度やっても好きになれない。昨年、自分でDTP作業をやった際に、ちょっとした直しでもいかに面倒かが身に沁みてわかったので、少しでも校正者や編集者、あるいは膨大な直しを依頼される組版会社にかける迷惑を減らすために、見直しにかける時間を増やしたつもりだったが、今回も凡ミスが多出している。  

 一つは数字の間違いだ。単位の計算間違いから、桁の読み違いに始まり、twelveをtwentyと読んでいたりする視覚的な間違いまで、再校になっても自分でも呆れるほどまだ残っていた。何度も見直しているつもりでも、その他の箇所に気をとられると、一つひとつの数字のチェックはどうしても疎かになる。恐ろしくつまらない作業であっても、数字の確認だけを全編を通してすることの大切さを、今回思い知った。  

 だが、圧倒的に多いのは漢字の間違いだ。対象と対照、触覚と触角などは、偏在と遍在、加熱と過熱などは何度も間違えているのに、またやってしまった。極めつけは「発砲スチロール」と3回も変換していたことだ。どんな恐ろしい物体よ!と、3回目にチェックを入れながら校正者が呆れる声が聞こえるようだった。本当に赤面ものだ。  

 くじ引きの場合は、当選ではなく当籤なので、「当せん」にすることや、「うず高く」は「堆く」が正しいので、やはりひらいてしまうといったことは今回初めて覚えた。手のひら→掌、紅茶を入れる→紅茶を淹れるなどは、昔、注意された記憶がある。  

 それ以外の漢字の間違いの多くは、正字と異体字の違いだ。子供のころ漢字練習も書道も苦手だったので、多年にわたる怠慢をこの年齢になって取り戻すのは並大抵のことではない。漢字が大の不得意だという自覚はあるので、同じ読みで何種類もの漢字がある場合などはとくに、どれを使うべきかその都度確かめてはいるのだが。  

 しかし、ほんのわずかだけ棒の角度が違ったり、向きが逆だったり、長さが違ったり、点が多かったりする正字を選ぶ作業となると、老眼の私にはかなり厳しい。呑と吞、剥と剝、頬と頰、繋と繫、嘘と噓、掻と搔、靭と靱など、どこが違うのか、虫眼鏡を使わないとわからないような差だ。変換の際にでてくる候補から見分けようとすれば、余計な手間となる。 

 もちろん、一見して明らかに違う字もある。涛と濤、蝋と蠟、噛と嚙、鹸と鹼などは、なんだか黒っぽいぞと私の目にもわかる。だが、こうした難しい字は修正を赤で入れようとすれば、崩壊して一つの漢字にはとても見えなくなるのがオチだ。石鹸(鹼)の偏など、虫眼鏡で拡大して初めて、歯でないことを知った。こんな字を書ける人がどれだけいるのだろうか。中国の簡体字ほど大きく変える必要性は感じないし、昔の文献を読むために倍の努力が必要になりそうなので、むしろよくないと思うが、やたら難しい字をいつまでも正字として残さなければならない理由もよくわからない。  

 今回もう一つ発見したことは、私の原稿では正字に変換されていた漢字が、どこかの段階で略字に変換されてしまい、それがゲラに印字されているものが多数あったことだ。使用するソフトやフォント間の橋渡しに問題があるのだろうか。餌、飴、櫛、饗などの下が横棒2本の食偏やそれに似た部分、謎、迂、這などの二点しんにょう、廟、揃など横棒が斜めの月、煽、溺、摺などの2点とも左下がりの「羽」、箸、堵、賭などの点付きの者を含む漢字のほか、錆、騙、鞄、詮など、私が使っているWordソフトではどうやっても正字しか打てない字が、なぜか略字に変換されているのだ。こうなってくると、目を凝らして見たところで、相性しだいで変わってしまうことになる。  

 点がいくつあるか、横棒の角度がどうかなどと、老眼を酷使して漢字を確かめているうちに、重要な内容の間違いが見逃されてしまうのでは本末転倒だ。出版業界や印刷業界、報道関係者など、いったいどれだけ多くの人がこうした無駄な作業に貴重な時間とエネルギーを費やしているのだろうか。  

 國のように、すでに旧字とされたつくりを含みながら、「掴む」は「摑む」と訂正が入る。これなどは、手書きが廃れ、コンピューター入力が増えるなかで、戦後に広まった拡張新字体の見直しという新たな傾向のためらしい。新聞などが使用し始めたこれらの字体は、鶯(ウグイス)と鷽(ウソ)がともに鴬とされるなど、問題があったのだという。ちなみに、私の使っているワープロソフトでは、この拡張新字体は「うぐいす」と打たなければ表示されなかった。  

 本来は、同じ基本パーツを組み合わせればすべての漢字がつくれるほうが、子供の教育のためにもよいと思うが、すでに100年以上、中途半端な方針をつぎはぎして二進も三進も行かなくなっているのだろう。考えてみれば、江戸時代までは大半の人が簡字体をさらに簡略化したような崩し字を筆で書いていたのだ。楷書を目にする機会は、木製活字を使った印刷物を読むときくらいだったかもしれない。それとて、彫師の気まぐれで、棒の長さや角度は違っていたはずだ。活版印刷が普及した際に、あまりに黒々としてインクの目詰まりを起こしかねない文字は、簡略化しておけばよかったのに、漢字のルーツに詳しいごく少数の学者が正しい字にこだわったのだろうか。  

 いまでは難しい字を手書きしなければならない機会は、一般人にはまずないだろう。この際、中途半端な簡略字は廃止して、かつあまりにも複雑な漢字はお蔵入りにして、誰がどのパソコンで打っても、間違い探しのごとく似た文字がいくつも候補としてでてこないようにしてもらえないものだろうか。



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