2021年9月20日月曜日

二夫さん

 私には会ったことがなく、その存在すらつい数年前まで知らなかった大叔父がいる。亡父と疎遠であったため、そもそも父方の親戚はあまりよく知らないのだが、この大叔父(二夫、つぎお)は1928年ごろにアルゼンチンに移民したきりとなっている。弟の話では、東京外国語学校(外大の前身)の西語学科をでて外務省に入り、その後、一念発起して海を越えたようだ。  

 たまたま弟と私は同じ時期にナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を読んでいて、話は自然とこの二夫さん一家のことになった。弟は子供のころ、二夫さんの妻リンさんと末娘マリアが一時帰国した際に会ったことがあり、そのときの写真ももっていたが、詳しい事情は知らなかった。  

 アルゼンチンのミシオネス州にいたこの大叔父一家を頼って、父の姉も十数年間、地球の裏側にある彼の地に移住していたことがあったので、アルゼンチン生まれの子供たち、つまり私のいとこRaulたちなら詳しいだろうと久々に連絡してみた。だがあいにく、親世代が他界したあと、ミシオネスの一家とは言葉の問題もあって音信不通になってしまったとのことだった。  

 幸い、いとこの家には二夫さんが1969年1月に書いたという長い手紙が残されていた。明治生まれで、長年、日本を離れていた二夫さんの手書き文字は、古文書よろしく変体仮名が多く使われ、読むのにかなり苦労したものの、FB友たちの助けを借りて9割以上は判読することができた。そこには、アルゼンチンの日系人たちや家族の近況が事細かに綴られていた。  

 私の実家のアルバムには、アルゼンチンに渡った伯母夫婦の後ろに、日本人らしい若い男女が立つ写真が残されていた。いとこがもっている写真と見比べると、後ろの2人は二夫さん夫婦の上の子供たちである可能性が高い。だが、長女に関しては手紙のなかで言及がないので、ひょっとすると早世したのかもしれない。  

 いとこのラウルが子供のころ一緒に釣りに行ったという二夫さん次男のカルロスについては、「武州政府の水産局に席をおいて大学の方の研究室はムセオ〔博物館〕にあって」養殖に関連した研究をしていると手紙には書かれていた。カルロスに関しては、ラウルがネット上から彼の功績をたたえる小冊子(Ictiólogos de la Argentina, Carlos Togo, 2011)を見つけてくれた。そこには一目で親戚と思える顔立ちのおじさんの写真数点ともに、彼がラ・プラタ川流域で発見したらしいカラシン科淡水魚の新種、Hyphessobrycon togoiの写真が掲載されていた。ところが、書かれているスペイン語を自動翻訳してみると、家庭の事情で魚類の研究からは離れてしまい、そのためかつての同僚たちが2006年に彼の名を学名に付けて功績を顕彰したというもののようだった。

 二夫さん家族に関しては、祖父の除籍謄本にかなり詳しく記録が残っていたが、下のほうの子供たちは記録がない。ホセという名前だけが伝わっていた男の子は、どうやら考古学を専攻し、「昨年の休みは教授の供でサルタに古墳発掘に行って帰宅しなかったが、此度は年末に帰宅して一週間ばかり居て、又、休中はサルタ州」であることなどが、手紙から判明した。このホセに違いないと思われるDr. José Togoという考古学者が、昨年、日本の外務大臣表彰を受賞していたこともわかり、研究論文に書かれていたメールアドレスに連絡してみたのだが、いまのところまだ返答がない。  

 弟が子供のころに会ったというマリアについて、二夫さんは「これは宅での一番の才女だ。親が云ふのも変だけれ共(ども)、これは毛唐の中に押し出しても一歩もヒケをとらない。それに人気者で凡ての人に可愛がられる人徳もある」と一押しだった。マリアは法科で学んでいる。末娘が育つころには、現地社会にすっかり溶け込み、アルゼンチン人として互角に勝負できるようになったのだろう。  

 佐賀県多久市の父の実家で撮影された古い家族写真がある。初めてこの写真を見せてもらったときは、まるでフィリピンの一家のようで、さすが南国だと驚いた記憶がある。なかでもとくに目立つのが前列中央に、大正ロマン風の着物を着て座るつぶらな目の若い女性で、この人が二夫さんの妻リンさんではないかと気づいたのは何年か前のことだった。  

 この写真は子供たちの年齢から1933年ごろの撮影と推察されるのだが、二夫さんとリンさんの婚姻届は1930年にだされている。二夫さんが1969年の手紙のなかで、「アルゼンチンに来て此年で四壱年になる」と書いているため、彼が出国したのは1928年と逆算したのだが、リンさんと結婚するために一時帰国したのか、リンさんだけしばらく日本に残っていたのか等々、あれこれ頭を悩ませた。  

 しかし、いとこのラウルや弟と何度もメールをやりとりするなかで、驚くべき事実が見えてきた。二夫さんは1928年に日本を離れてからおそらく一度も帰国せず、数年後に、アルゼンチンから故郷出身のお嫁さんを探したのだろう。リンさんは、おそらく1933年ごろ、この写真が撮影されたのちにアルゼンチンへ渡ったに違いない。これはリンさんと、付き添いで渡った彼女の弟タケシ(のちにラウルらの父親となる)の壮行会の写真だったのだ。  

 手紙の最後に二夫さんはこう書く。「だが負けおしみで強がりでなくハッキリ言へる事は、俺にわ後悔はない。若き日の発願の眞念を一貫して遂行して来た現実をツクヅク眺めても一寸もミヂメな感慨わ起こらない[……]俺わ後幾年生があるか知れぬが一粒の麦となって此世を去って祖国日本の現状も豊かさの中の幸と不幸を見る。[……]現在の俺の只一つの希望わ、君達一家を中ツギにして故国日本にある目に見ぬ血縁の人々の[カ]俺達一家との、形にわ現われずとも、目にわ見へなくとも、強い一本の綱で結ばれて居る事と信ぢておる。又信ぢなければいけないと思ふ」  

 二夫さんやリンさんが存命のうちは叶わなかったが、いまはインターネットで地球の裏側も瞬時につながる時代だ。一粒の麦が見事に実を結んだような、アルゼンチンの親戚たちと、1世紀近い歳月を経て再びつながることができたらと願っている。そうしたらいつか、私もアルゼンチンまで行って、どことなく似た顔立ちながらスペイン語をしゃべる父のいとこたちや、私のはとこたちと会い、togoiと名前の付いた魚がラ・プラタ川で泳ぐのを見て、紀元前11,000年ごろとも言われるクエバ・デ・ラス・マノスの洞窟壁画を見て人類のグレート・ジャーニーを実感し、お土産には娘が愛飲するマテ茶を買い込もう。

追伸:ここまで書いた翌朝、ホセ東郷博士の娘さんからメールが入っていた!! 
 

多久にある父の実家の家族写真。画面中央の若い女性がリンさん。後列、左から2人目が弟のタケシさん、その右隣が私の祖父。祖母に抱かれているのが私の父

アルゼンチンに渡った伯母夫婦と、二夫さんの子供たち

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