締切りの厳しい仕事に追われているときに限って、「六月大歌舞伎」の第3部が、玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に演目変更になったとい新聞の短い紹介記事が目に留まり、そこからいくつかのネット上の記事を検索した結果、意を決したのだ。
正直に言えば、新聞記事を最初に読んだときは、玉三郎のような人がなぜこの作品にこれほど入れ込んでいるのか、私は理解しかねていた。ここ数年、この作品は明治座でも演じられて話題になっていた。だが、有吉佐和子の戯曲(1970年)のあらすじを読んだ限りでは、横浜の居留地や岩亀楼の実態とはかけ離れているように思われたのだ。
横浜の港崎遊廓は、外国人を受け入れるための「都市建設に伴う必須条件」として開港当初から設けられていた幕府公認の遊廓だった。『横浜市史稿』風俗編(1932年刊)は延々270ページも割いてその後、昭和まで場所を変えつつ存在しつづけた横浜の遊郭の歴史について述べている。幕府に遊廓の設置を勧めたのは、オランダのポルスブルック副領事と考えてまず間違いないだろう。
彼自身が「本町二丁目に居住する文吉なる者の娘お長」を見染め、ピートと言う息子をもうけた。
『横浜どんたく』下巻(有隣堂)に掲載された「珍事五カ国横浜はなし」(1862年)にはこんなエピソードがある。ポルスプルックが「百枚の洋銀ザラリと投出し、交渉に及びけるに、もとより開放主義のお長とて、蘭でも漢でも私や構やせぬと、早速応来の吉報は与えたるも、野暮天なる当時の役人等は、例の体面云々の考えより、公許の娼妓にあらざれば、外国人の妾たる能わず」。窮したお長は表向き岩亀楼の娼妓になり、鑑札料として月々1両2分ずつ同楼に納め、外妾の元祖となったのだという。
同書には1862年当時の居留地の外国人リストもあり、その大多数には小使いや別当とともに、「娘」として遊女の名前が記されている。和蘭陀のコンシユル、ボスボクスのところには確かに「娘〔ラシヤメン〕 てう」とあるし、下段の英吉利のコンシユル、ゲビテンワイス(ヴァイス大尉)には「娘〔ラシヤメン〕 たか」とある。この物語の舞台となる岩亀楼は港崎遊廓の代名詞ともなった楼で、「二階楼を異人館と和人館に区別し」た造りで、幕末のあいだはこの一軒だけが「異人揚屋」だったと、『横浜市史稿』は書く。
改めて読み返してみると、『横浜市史稿』には「岩亀楼遊女喜遊の正体」と題した、今流に言えばファクトチェック、オシントとでも言うべき章まであった。遊廓が大きな位置を占めてきた横浜の歴史を編纂するうえで、この攘夷女郎の逸話はとうてい無視できなかったのだろう。明治32年に書かれた決定版的な『温故見聞彙纂(いさん)』から、慶応年間の刊行かと書かれた『近世義人伝』まで諸説を集めて食い違いを検討したものだ。それによると、自死した遊女の名前も、その父の名前も、身請けを申しでた外国人の名前も、憤死した年月も、年齢にも資料によって食い違いがあった。市史の執筆者は喜遊(有吉作品では亀遊)と呼ばれることの多かった女性の墓所も探したようだが、発見はできなかったという。
有吉佐和子は戯曲を書いた際に、これらの資料を読み、そこから瓦版でまことしやかに書き立てられた攘夷女郎の話に合わせて、世間が求める方向へ話がどんどん飛躍していくさまを、そのまま戯曲にするという、抜群のアイデアを思いついたに違いない。ネット上で見た2008年の映画版の予告編の最後に、玉三郎の演じる語り手の年増芸者お園が、「みんな嘘さ」と、絞りだすように言う台詞を見て、ようやく有吉佐和子の意図も、玉三郎がこの作品に強い思い入れがある理由も理解したのだった。「嘘っぱちだよ。おいらんは、喜勇さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまったのさ」と台詞はつづく。
よく読めば、花魁の自死がテーマにもかかわらず、この作品は「喜劇」とされていることがわかるのだが、私同様に勘違いしている人はかなりいるのではないだろうか。なにしろ有吉佐和子の曾祖父、有吉熊次郎は、長州の御盾組の1人で、池田屋事件の生き証人となり、禁門の変で久坂玄瑞らと鷹司邸で自刃したという、きわめつけの攘夷派だったからだ。実際、「あの前後は高杉晋作が品川のイギリス公使館を焼打ちしたり、胸のすくような事が続きましたねえ」という、大橋訥庵の「思誠塾」の門人、多賀谷の台詞まである。有吉佐和子の曾祖父はまさしくその下手人の1人だった。享年23歳なので、本当に遺児がいたのか、養子縁組していたのかはわからないが、そんな志士の子孫が、攘夷から一気に西洋追従に変わる時代に翻弄されつつある人びとを、笑いのなかで見事に描き切っていたのだ。
有吉佐和子の意図がわかれば、「岩亀楼遊女喜遊」が実在の人物かどうかなど、探るだけ野暮な気がしないでもない。それでも、横浜の歴史に首を突っ込み、否応なしに遊郭の歴史も読んできた身でもあるので、少しだけ私なりの推理をしてみた。一次史料と呼べるものがない場合はとくに、「実話」は時代を経るごとに尾鰭が付く。よって、情報は少ないが、戯曲にも登場する江戸の新吉原の桜木という花魁が最初に「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の歌と関連づけられた安政4、5年ごろがヒントになりそうだ。となると、候補はハリスの通訳で、暗殺されたヒュースケンと彼の江戸での日本人妻とされる、おつるあたりだろうか。
作品に登場する外国人はアメリカ人イルウスという設定だ。大正期までのいくつかの資料が「伊留宇須」、イルミスンとしていたが、アボットだとするものもあった。イルウスならば、ヒュースケンの遺体写真の撮影者で、下岡蓮杖に写真機材を譲ったジョン・ウィルソンの名前が一部の日本人に知られていた。
ヒュースケンの寡婦と遺児の写真だとよく言われる古写真は、実際にはポルスブルックの妻子、つまりお長とピートだと、古写真研究者の高橋信一氏が突き止めておられた。オランダからの移民だったヒュースケンとポルスブルックは親しく、遺族の面倒を見ていたとどこかで読んだような記憶がある。ポルスブルックとお長の関係については、いくつかの証言が横浜市の史料に残っているので、この江戸時代のフェイクニュースは、このあたりの何人かの有名な外国人と日本女性の逸話をもとに、故意や勘違いから、口伝えに膨れあがったのだろうと思う。
本来ならば、舞台を見てからこの記事を公開すべきなのだが、今日は横浜開港記念日だし、もう1カ月近くブログを放置してしまったので、早めにアップすることにする。この先、さらに多忙になりそうなので、観劇の感想は少しあとから追加するかもしれない。高校か大学のころ、一度だけ玉三郎の歌舞伎を国立劇場に観に行ったことがあるが、それ以来のことになる。今回の公演は27日まで。
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