2022年6月5日日曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 その2

 日曜日の夜、予定どおり歌舞伎座へでかけてきた。最後に劇場に行ったのはコロナ以前どころか、孫が生まれる前のことだから、本当に久々に幕が上がる前の、現実の世界から芝居のなかの世界へ入る瞬間を味わうことができた。  

 事前に脚本を読んでいたので、おお、この場面はこう演じるのか等々、一部始終が興味深かったし、一読しただけでは見落としていた重要な台詞も多々あり、やはり生で観て初めて芝居は理解できると思った。ほぼ出ずっぱりのお園役の玉三郎は、女形の発声で長時間喋りつづけ、それを1カ月繰り返すのだから相当な負担になるだろう。第4幕はとくに大熱演で、観終わったあと私まで無性に日本酒が飲みたくなってきた。共演の俳優たち、通辞藤吉を演じた中村福之助や岩亀楼の主人の鴈次郎なども、なかなかいい味をだしていた。  

 その一方で、台本にある言葉が、少なくとも私の世代以降には耳で聞いて理解しにくいものも多かったと思う。「本当は攘夷党の間諜(かんちょう)でさ」、「子の日(ねのひ)おいらんが、いや吉原じゃ子の日だったけど、横浜(はま)じゃ亀遊さんというんだった」などは、さっと聞いてわかるものではない。懐剣も、「かいけん」と読んでいたが、「ふところがたな」のほうが舞台ではわかりやすいのでは、などと思ったりもした。「おいらん、せいぜいお繁りなんし」という隠語らしい言葉は文字で読んでもわからなかったし、「私はでたらめと坊主の頭はゆったことのない女ですよ」という台詞などは、早口だったこともあって、観客からの笑いは少なかった。英語の台詞も多く、これも聞き取りにくさを増す原因となっていた。  

 この作品は、フェイクニュースだらけで何を信じればよいのかわからない昨今の情勢のように、一握りの真実の混じった嘘がどんどん広がる様を描いているので、観劇後、よくわからなかったと話している声がちらほら聞こえた。「確かにわかったのは、口は災いの元だということ」という感想を小耳に挟んだときは苦笑してしまった。世の中が揺れ動く時代に、日本人の最大の処世術は「見ざる聞かざる言わざる」で、だから庚申塔には三猿が彫られていたのではないかと、私は以前から勝手な推測を立てている。  

 有吉佐和子の戯曲にいくつかの誤解と偏見があったことも、舞台を観たことでよくわかった。とりわけ「唐人口」と呼ばれた外国人相手の遊女にたいする蔑視であり、こうした姿勢は幕末だけでなく、戦後の日本でも顕著に見られたことは言うまでもない。唐人口の遊女がことさらに醜く演出されていたのはやり過ぎだったように思う。  

 舞台では、障子を開けると港が見えるような造りになっていて、カモメの鳴き声とともに素敵な効果をだしていた。実際、新たに入船したのがアメリカ船だと話す台詞もあるのだが、港崎遊郭の場所はいまの横浜スタジアムの場所で、当時の港でも600メートルくらいは離れているので、たとえここが珍しく2階建であっても、はたして海がそれほどよく見えたかなどと、無粋なことを考えた。舞台装置を考案した人は、貞秀の「横浜異人商館の図」(1861年)を参考にしたのかもしれないが、これは英一番館、ジャーディン・マセソンではないだろうか。  

 岩亀楼の扇の間のセットは、壁面こそ扇が飾られていたが、岩亀楼として伝えられている竜宮城のような横浜絵からすると、和風過ぎるように思った。1幕を除いて、舞台はここを中心とするので、どんどん増えていく攘夷女郎の小道具の入れ替えなどは、その都度、緞帳を下ろさずに舞台照明だけ落として観客にその滑稽さが伝わるような演出でもよかったのではないだろうか。新作歌舞伎だからなのか、定式幕ではなく緞帳で、歌舞伎の回舞台のような手品が見られなかったのも、ちょっと残念だった。  

 なお、この芝居に名前だけ登場する大橋訥庵が渋沢栄一と何らかの関係があることだけは知っていたが、調べてみたことはなかった。この記事を書くためにちらりと検索したところ、坂下門外の変を計画した人物であり、かつ堀織部正利煕が謎の自刃を遂げたあと、堀の安藤信正にたいする諫言の書と称する偽書を捏造して世論形成をしたのだという。堀織部正の死をめぐっていろいろ調べたことがあったので、これは目から鱗の情報だった。時間のあるときに、この典拠となっている土井良三の本を読んでみよう。

 歌舞伎座の建て替えは2014年だったらしい。

開港当初の横浜にいて克明な日記を残したフランシス・ホールの書、JAPAN THROUGH AMERICAN EYESの表紙に使われていた貞秀の「横浜異人商館の図」
舞台から見えた窓の外の光景は、これにやや似ていた。

『横浜浮世絵』横田洋一編、有隣堂より

 同上
 舞台に使われた扇の間はこれにやや近い。

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