2024年5月28日火曜日

国会図書館デジタルコレクション

 国会図書館のデジタルコレクションは、私が祖先探しを始めたころからありがたく使わせていただいているものだが、今年になって約75万点が新たにテキスト化されたとのことで、全文の検索が可能になっている。そう教えてもらっていたものの、ずっと忙しくて十分に活用していなかったが、昨夜、別の検索をしたついでにふと高祖父の門倉伝次郎の名前も入れてみたところ、思いがけない発見が多々あった。あまり興奮したせいか、今朝はやたら早く目が覚めたので、とりあえず見つけたものを書いておく。  

 高祖父は維新後、陸軍の馬医になって横浜などにいて、従七位という低い官位も一応もらい、西南の役にも駆りだされているのに、そうした記録はこれまでほとんど見つからなかったが、この新しい検索機能のおかげで、官報や陸軍の記録が上田関連の資料とともにいくつか出てきた。  

 しかし、驚いたのは『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』という明治32年刊の陸軍騎兵実施学校が刊行した書籍に、調馬師の目賀田雅周述として仙台産馬に関する例が数例並ぶなかにこう書かれていたことだ。 

「元治年間、松平伊賀守の家臣に門倉伝次郎あり。許可を得て横浜在留の英獣医某に就きて其術を学びしとき(獣医の項参照)常に一頭の三春馬に乗て通ひたり(此馬は目賀田調馬師の自ら調教したるものにして河野対馬守の所有なりしを、伊賀守に売却したるものなり。青毛にして体尺五尺一寸五分)しに、□(言偏に夾)英人懇望止まさるに至りたるを、遂に伊賀守より之を贈与せられたる欣喜、措かすして本国に牽帰り御ち其返礼として馬具一式に添ふるに若干の獣医治療器械(現今の価格に積り約三千円のもの)を以てせり」  

 おおよそ同文のものが、昭和3年刊の『日本馬政史』第3巻(帝国競馬協会)にも書かれていた。この英人はまず間違いなくアプリン大尉だ。青毛の馬は飛雲と思われ、上田の最後の藩主松平忠礼が乗り、伝次郎が横に立つ写真が残る黒馬と推測される。拙著『埋もれた歴史』の表紙に使わせてもらった貴重な古写真だ。体高は約156cmだったことになる。アプリンが日本滞在中に自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じていたことは、彼の長男が自著に書いており、前髪がもさもさした日本馬にアプリンが乗って猟をする戯画をワーグマンが描いている。ただし、上田側の記録では一年間、アプリンに預けて調教してもらい、アプリンが帰国した1866年または67年に藩に戻されている。そもそも、アプリンはアロー戦争時からの愛馬で日本に連れてきたアラブ種の馬も帰国時に売却せざるをえず、彼の鞍ですら伝次郎が「買った」と、アプリンとともにイギリス公使館にいた医師のウィリアム・ウィリスが書き残している。帰国後にアプリンが薩摩藩などに鞍を贈った記録は、横浜開港博物館で見たことがあるので、こうした諸々のことが混同されて書かれた文書かもしれない。それでも、高祖父の確かな足跡を見つけた気がした。  

 昨夜のもう一つの大発見は、『新体育37』12月号という1967年刊の雑誌に、どういうわけか伝次郎の名前が書かれていたものだ。そこには「力士雷電之碑」と書かれた拓本が写り、佐久間象山が「此碑嘉永五(1852)年所建」とあり、そのあとに「信州上田人門倉伝次郎君所贈」とだけあった。夜中に眠い目をこすりながら説明を読むと、石黒忠悳が「珍蔵」していた拓本だという。「此碑信州上田在大石村に建る所にして、土人此碑の石片を懐中すれば勝敗事に勝ち、殊に無尽講に利ありとして石以て碑面を打撃し、其石粉を持帰るを以て全碑面完膚なく一字も読む能はず、此榻本の如き極めて珍襲するに足るものなり。況や余少時初めて象山先生に謁する時、此碑文を暗誦して先生を驚したる事あるおや、家に蔵して珍襲す。 現斎石黒忠悳識」とも書かれていた。  

 石黒忠悳が文久3(1863)年に象山に会ったときのエピソードは、松本健一が『評伝 佐久間象山』に書いており、拙著でも19歳だった石黒の攘夷思想を象山が嗜めたエピソードは引用していたが、力士雷電の件は朧げにしか記憶していなかった。今朝になって該当箇所を読み直してみたら、かつて中之条にいた際に、大石村の路端で雷電為右衛門(1767〜1825年)という力士の碑文をいつも見ていたため、その全文を暗記していると言ってそれを誦じたと書かれていた。「この碑文の終わりにあります『今、余雷電のためにこの碑に識して、またまさに殆ど泣かんとするなり』というその御顔を拝見に参りました」と言うと、象山は「面白い、面白い」と笑って答えたというものだ。  

 伝次郎は象山塾に嘉永4年8月に入門している。『上田市史』の伝次郎の項目には「象山其の馬術に精妙なるを見、自らは学によりて、様式馬術を教え、彼よりは技によりて騎術を習える程なりき」と書かれていたが、どんな交流があったのか詳しく記すものは残っていない。石黒忠悳の話を信じるとすれば、この碑は少なくとも文久3年以前に前に建てられていたはずで、その碑の建立に伝次郎がかかわっていたということだろうか? 伝次郎は、弘化年間は大坂、嘉永年間以降はずっと江戸詰めで、石碑を建てる費用を捻出できるほど裕福ではなかったと思うのだが。  

 象山は嘉永7年のペリー来航後、弟子である吉田松陰の密航未遂に連座して蟄居になった。『象山全集』では未確認だが、文久元年4月に象山が雷電の容貌を問うた記録があるそうで、古い碑はこの年の建立とされている。そうだとすれば、蟄居中の象山と伝次郎のあいだでまだ親しく交流があった証左になりそうだ。 設置場所は多少移動したらしいが、東御市滋野乙牧家にいまも現存するという石碑の画像を見ると、『新体育』に掲載された拓本は明治28年に勝海舟や山岡鉄舟らによって建てられたという新しい立派なほうの碑のもののようだ。近くに立つ古いほうの碑は、確かに「完膚なく一字も読む能はず」というほど、ただの石の塊に戻っている。蟄居中の象山の「明撰并書」による碑を文久元年に建てたことには、何らかの深い意味があったに違いない。 

 昨夜は、デジコレでほかにも曽祖父たちの新たな記録が多数見つかった。テキスト化され、検索機能が加わったことで、どれほど多くの新史実が自宅に居ながらにして発見されることだろうか。日本語の古い文献をテキスト化する作業は並大抵のことではない。その技術を開発し、膨大な点数の文書に対処してくれた人びとに感謝したい。

『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』(陸軍騎兵実施学校刊)
 国会図書館デジタルコレクションより

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