2024年7月3日水曜日

上田日帰り調査

 忙しかったうえに体調も思わしくなかったため、ブログをサボってしまっていたが、ようやく先月なかばの日帰り上田調査のことなどを備忘録程度に書いた。やる気になったきっかけの一つは、先日たまたま上田の「松平神社文書」が話題になり、その後、以前にお世話になったことがある和根崎剛氏の「史跡上田城址整備事業の現状と課題」(平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書)の論考を見つけことだった。  

 7年ほど前に上田市立博物館で閲覧した祖先の記録に「松平神社文書」と書かれており、その後、何かの折に「しょうへい」神社と読むことを教えていただいたはずなのだが、そんなことすら私の記憶からすっぽり抜けてしまっていた。松平神社がいつのまにか真田神社になってしまったことは、松平家のご子孫が以前に嘆いておられたので記憶に残っていたが、神社そのものが明治12(1879)年に松平氏の祖先を祀る松平神社として創建されたことはしっかり認識していなかった。  

 和根崎氏によると、廃藩置県後、城郭は大蔵省に引き渡されて払い下げられ、本丸の土地を取得した上田藩御用達商人の丸山平八郎直義が神社用地として寄付したのが始まりで、氏子のいないこの神社は、松平氏旧臣とその子孫が管理運営しているという。丸山氏はその後、現在も西櫓として残る本丸隅櫓を旧藩主の松平忠礼に献納するとともに、遊園地用地として本丸の残り部分も寄付し、明治20年ごろから上田市が公園として整備するようになったらしい。神社そのものは、戦後の1953年に上田神社となり、さらに1963年には眞田神社と改称されているが、一応、真田氏、仙石氏、松平氏の歴代城主を祀っている。  

 このあたりには、上田の人びとの複雑な思いが反映されていそうだ。わずか40年しか城主でなかった真田家にとくに縁があるわけでなくとも、上田市民のアイデンティティとして歴史は残したい。ただし、明治になってようやく武士の世から解放されたのだから、166年間も圧政を敷いた松平家はご免こうむりたい、という感じなのだろうか。最後の2代の藩主、松代忠固・忠礼がほぼ江戸にいたことも関係しそうだ。母方の家は戦後の数年間を松代で過ごしており、祖母が「真田の奥さま」の主催する会にいそいそと出かけていたとも聞いている。真田家は地元を離れなかったのかもしれない。ちなみに、仙石氏の世は85年間だった。

 上田市立博物館そのものは、博物館のホームページも参照すると、昭和4(1929)年に西櫓を「徴古館」として開館した。太平洋戦争直前の1941年に、市内の遊郭に移築されていた本丸隅櫓2棟が東京の料亭に転売される話が出て、市民がこれを買い戻して戦後の1949年に南櫓、北櫓として再建され、上田神社と改名された同年の1953年にこの2棟を加えて「上田市立博物館」として登録された。現在の本館は1965年に落成した。  

 先日、私が拝見した数々の史料は、こうした紆余曲折を経て現在に残る記録だったのだ。なかには虫食いだらけでページとページがこびりついて、なかなか開けない史料もあったが、それらは松平神社の倉庫の片隅で激動の一世紀間、ひっそりと保存されていたのかもしれない。戊辰戦争をはじめ、その後の大震災や空襲等で過去の記録が一切失われてしまった地域も多々あるなかで、上田が比較的平和な時代を過ごしてきたおかげでもある。  

 調査そのものは、短い時間を有効に活用しようと、事前に研究者の方々からいろいろな情報を仕入れ、入念に用意していった甲斐あって、予定していた史料は調べあげ、その他いくつか当てずっぽうに選んで閲覧した史料のなかにも、思いがけない発見があった。  

 直接の祖先に関しては、今回新たに得られた情報は残念ながらわずかで、だいぶ昔の祖先が、いったん妻の弟を養子にしたものの、妾に子ができたため、そちらを後継にしたという拍子抜けする記述だけだった。ただし、前回の調査で偶然に嘉永5年の地図で見つけた祖先の家の場所は、いまの地図とよく照らし合わせた結果、ここと思う場所をもう一度訪ねてみた。  

 画期的だったのは、博物館での調査後、事前にダウンロードしておいた「バイクシェア」なるアプリを使って電動アシスト自転車を借りて、願行寺を経由しつつ、佐久間象山が若いころ松代から馬で通ったという活門禅師の遺跡を訪ねたことだ。こちらは事前の下調べ不足で、遺跡が実際には3か所もあることに気づかず、わざわざ遠い岩門大日堂跡に迷い込むはめになったが、観光地とは程遠い農村地帯で、ちょうど田植え後の美しい田園風景のなかを、夕陽を浴びながら自転車ですいすいと走ることができた。  

 借りた自転車は、しなの鉄道の信濃国分寺駅で乗り捨てし、そこからさらに数駅電車に乗って滋野まで足を伸ばした。前回のコウモリ通信に書いたように、そこに高祖父が何かしらかかわった可能性がある「力士雷電之碑」が現存するからだ。グーグルマップで上田からの自転車ルートが出てこなかったため、しなの鉄道に乗ったのは正解だったが、地図上では駅から石碑まで数百メートの距離のはずが、往路はひたすら登りの坂道で、民家の正面に忽然と現われた2基の石碑にたどり着いて、何か手掛かりはないかと周囲を足早にめぐったころには、復路の電車時刻まであと5分しかなくなっていた。前後の乗り継ぎを調べておらず、とにかく駅まで走ろうと下り坂を猛ダッシュした。どうにか発車間際の電車に飛び乗ったものの、あまりに息が上がってしまい、滋野駅にあった力士雷電の大看板も、全国の田中さんが詣でるという隣の田中駅に着いたころもまだ回復せず、写真を撮り損ねてしまった。

 その後、新幹線の乗り継ぎが悪くて、結局、上田駅の六文銭の下でおやきを食べながら、だいぶ時間をつぶすことになった。それでも、9時過ぎには無事に帰宅することができ、実りある1日となった。

上田城址公園の時の鐘。数百年にわたって上田で時を告げてきた鐘だったが、戦時中の金属供出させられ、戦後に新しく鋳造したもの。

城址公園内に翻る各家の幟旗。後方に見えるのが南櫓と北櫓。

嘉永年間に祖先が住んでいたと思われる一帯(右手)。『上田歴史地図』には、「道に面したところは門倉門蔵ら三名の住居があり、鈴木六郎家の横から細い道をつけ、中央と奥の部分に長屋が置かれている」と書かれていた。

電動アシスト自転車で田園地帯を走った。

活文禅師の岩門大日堂跡
力士雷電之碑。手前にあるのが表面がすべて削られて判読不能になったという古い碑

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