2024年7月28日日曜日

『天の笛』

 最近はだいぶ改善したようだが、暑さとともに自分の水筒から大量の水を飲むようになったせいか、孫がおねしょをする事態が頻発し、娘が参っていた。そこでふと思いだしたのが、子どものころ大好きだった『モチモチの木』の絵本だった。  

 私にとってこの絵本は、宇野重吉の朴訥とした語りと一体化して、記憶の底に定着している。母の家を整理した際に『天の笛』というソノシート入りの本はもち帰ってはおらず、どうも処分してしまったと思われ、そうなると無性に聴きたくなる。ネットで音源を探してみたが、簡単には見つからず、結局、ヤフオクで出品されていたものを購入した。  

 しかし、姉のところのレコード・プレーヤーも壊れているとのことで、ソノシートを聴くこともままならず、いろいろ検討したあげくに、ココナラというサイトでレコードをデジタル化してくれるところを見つけ、そこにお願いしてMP3のファイルに変換してもらった。久々に聴く宇野重吉の声は本当に懐かしく聴き入ってしまった。『天の笛:宇野重吉の語り聞かせ』というこの斎藤隆介の作品集は、初版が1967年で、うちにあった『モチモチの木』は1971年の初版だった。現物がないので確かではないが、『天の笛』収録の語りを絵本に先駆けて、何度も聴いていた可能性が高い。  

 滝平二郎の切り絵は、当時、購読していた朝日新聞にたぶん毎週、見事な作品が掲載されており、母がいつもそれを切り取っては黒い画用紙に切り込みを入れた簡易額に入れて飾るほどのファンだった。おそらくそのためか、うちには『八郎』という絵本もあった。  

 どうせなら、デジタル化してもらった音源に、絵本の絵を合わせて動画をつくろうと考え、図書館からいろいろ借りてみた。『ひばりの矢』は1985年刊、『ソメコとオニ』は1987年刊で、どちらも今回初めて絵本になっていることを知った。『ひばりの矢』の切り絵は非常に美しい。 

『モチモチの木』のおくびょうな豆太は何と五つ。孫も5歳なので、いま読まなくていつ読む!というタイミングだった。孫はとくに最後の一文がお気に入りだ。爺さまのほうは、ずいぶん年寄りだと思っていたが、64歳だった……。豆太のお父は、「クマとくみうちして、あたまをブッさかれて死んだほどのキモ助だった」。再びクマが身近な存在となりつつあるいま、まさに読むべき絵本だ。  

 トチ餅を買ってやりたいと思っているのだが、本格的なものは手に入りにくい。お話のなかでは簡単につくっているが、実際にはどんぐりと同様に水で長時間さらしてアク抜きをしなければならない、手間のかかる食べ物だ。娘が小学生のころ、トチノキを知らなかった私は、エゴの実を見つけてこれに違いないと早合点し、砕いて舐めてみてやめたことがある。エゴはサポニンが入っているので、団子にしなかったのは幸いだった。  

 ソメコも五つだった。忙しい大人たちに「あっちゃ行って遊べ」とたらい回しにされ、泥団子まで食べて遊んでくれる鬼に連れ去られるのだが、「カクレンボするべエ」と鬼を悩ますソメコは、まさにいまの孫の現状で、読みながら当の孫もニヤニヤしていた。 

『天の笛』に収録されていた『ベロ出しチョンマ』は、私の記憶のなかではキリシタンの迫害とごちゃ混ぜになっていたが、読み返してみると、年貢を納められずに直訴して、一家が磔刑になったという内容だった。三つのウメまでという設定に疑問が湧き、調べてみると、当時、斎藤隆介が住んでいた千葉県若葉区を舞台に選んだだけの、まったくの空想作品とのことだった。  

 やはり収録されていた『東・太郎と西・次郎』は、まるで記憶になかったが読み返してみたところ、水源をめぐる竜の出てくる話で、日照りつづきの東の国と、大雨つづきの西の国の境にいる竜を太郎と次郎が対峙する内容で、気候変動で水文学的な変化がいちじるしい現代を象徴するような話だった。長いお話で、滝平二郎の挿絵も数点しか見つからないが、宇野重吉の語りでぜひ孫に聴かせてやりたい。  

 となれば頑張るしかないと思い、iMovieなる動画編集ソフトが入っていることに気づき、試行錯誤でとりあえず『モチモチの木』と『ソメコとオニ』だけは動画をつくった。ただし、まだ著作権に引っかかるため公開はできないので、絵本好きの知り合いにだけ必要かどうか連絡しようと思っている。

宇野重吉の語りが入っている『天の笛』と図書館から借りた斎藤隆介作品

姉宅から借りてきた初版の『モチモチの木』

2024年7月21日日曜日

メスナーテントをもって編笠山へ

 15年ぶりに、泊まりがけの登山に行ってきた。娘が6歳で初めて登った本格的な山である八ヶ岳の編笠山に、5歳の孫を連れて1泊2日で行ってきたのだ。娘が子どものころの登山にはいつも母が同行してくれ、食材等を背負って登り、調理の大半を手際よくこなしてくれた。今回はそれが私の役目となり、母が使っていたリュックを背負って登った。  

 私はふだん運動らしきことをほとんどせず、中学以来の腰痛もちであるうえに、膝の調子も万全ではなかった。鳳凰三山の縦走時に膝を故障してみんなに迷惑をかけた苦い経験が、山から足が遠のいた原因だったので、直前に膝用のテーピングも注文したのだが配送の遅れで届かず、結局、YouTubeで見つけた膝のストレッチ体操だけを頼りに出発することになった。  

 今回、娘が担いでくれたテントは、まだ秋葉原で会社勤めをしていたころ、昼休みに抜けだしてニッピンで店員の勧めに乗せられて購入した3kg強の軽量の同店オリジナルの製品だった。記憶が不確かなのだが、最初に編笠に登った1994年は麓の泉郷あたりに前泊して日帰りで行ったため、薄暗い森のなかをヘンゼルとグレーテルさながらに下山するはめになり、疲労困憊して駐車場(たぶん観音平口)にたどり着いたところにソフトクリームのスタンドがあり、それを食べたことだけはやけに鮮明に覚えている。  

 初めてテントで寝たのはその翌年のようだ。これまた無謀な計画を立てて権現から赤岳まで登るつもりが、途中で道に迷って藪漕ぎをしてどうにか前年と同じ登山道に出て青年小屋で張らせてもらったのだ。その同じテントを押し入れから引っ張りだしてみたところ、縫い目を覆うシーリングは剥がれかけていたが、生地そのものの状態はよく、加水分解しているようには見えず、ネット情報を頼りに自分でアイロンを使って張り替えてみたのだ。  

 秋葉原のニッピンが撤退したのは風の頼りに聞いていたが、神田店もコロナ禍とともに閉店しいたことを今回初めて知った。しかも、ニッピンのテントと検索してみるうちに、うちのはメスナーテントと呼ばれるもので、1978年にラインホルト・メスナーがペーター・ハベラーとともに人類初のエベレスト無酸素登頂を達成した際に携行したものだったことを古いブログ記事などから知った。ニッピンの社長がミュンヘンのIPSOスポーツ見本市でメスナーと意気投合して、軽量で簡単に設営できるドライエッケンシステム(ポールと本体をロープで巻きつけるもの)のテントを開発したのだそうだ。  

 この先、どれだけ山に登るかどうかもわからないので、今回とりあえずトレッキングシューズだけは購入し、その他ウォータージャグ、銀マット、ガスバーナー用のガスを買う程度で、あとは古い登山グッズを掻き集めて出かけた。とにかく天候がよく、みんなの体調が許せるレベルで、予定の入っていない週末となると、選択肢はほとんどない。「明日行くよ〜」というメールが娘からきた翌日午後、娘一家は車で一足先に出発し、私は土曜の朝、小淵沢駅で落ち合うために、えきねっとで残っていたおそらく唯一のグリーン席を購入した。全席指定の臨時列車だったので、快適なシートで2時間ちょっと身体を休められたのはよかった。

 孫はふだんから自然公園などはよく歩いているし、低山には何度か登っているが、本格的な登山は今回が初めてだった。自分の寝袋と水、若干の食料など1.5kgほどの荷物を背負っているので、途中でダメになったら引き返すという前提で登り始めた。しかし、得てして子どもは身が軽いため登りは得意で、途中あちこちで鳥や花を見つけるたびに立ち止まっていた割には、地図に記されているコースタイムをいくらかオーバーする程度の速さで昼過ぎには青年小屋にたどり着いた。道中、行き合う人たちから口々に、「えらいねえ、何年生?」などと聞かれるたびに、「何年生でもないの。5歳」と得意げに答えており、到着した際には、小屋前でくつろいでいた人たちから拍手で迎えられていた。実際、今回の山行では子どもどころか、10代の姿すらほとんど見かけることがなかった。  

 青年小屋のテント場は所狭しと40近いテントが張られていて、まるで行者小屋のようだった。山に行く話が本格化し始めたこの一か月ほど、孫のお気に入りの遊びは「キャンプごっこ」だったので、テントを建てる作業も嬉々として手伝い、なかに入ると早速、寝袋を広げて寝転がり、「一緒におしゃべりしようよ〜」と誘われて参った。「乙女の水」という水場に水を汲みに行くごっこ遊びも、家でさんざんやっていたので、ウォータージャグに水を汲む作業も自分がやると言って聞かなかった。孫はどうやら「乙女の水」は、きれいなお姉さんがいる神秘の場所と思っていたようだったが。  

 事前に使えるかどうか確かめてみてはいたのだが、ガスバーナーが着火しなかったのは今回の失敗の一つだった。小屋からチャッカマンを借りて点火してから、コーヒーのためのお湯を沸かし、ご飯を炊き、レトルトカレー用を温める作業をつづけることで事なきを得たが、ライターでも持参すればよかった。水に浸す時間が足りず、お米は若干芯が残ってしまったが、食べられる程度には炊け、カレーを温めているあいだに、半分は翌日の昼食用おにぎりにした。孫はおにぎりも自分で握ると言って聞かず、その挙句に出来上がったおにぎりを地面に落として怒られるはめに。そんなドタバタがキャンプ場中に笑いを提供していたらしく、一つしかないトイレを待っているあいだも「ご飯炊いていましたよね」と声をかけられてしまった。  

 考えてみれば、うちのように煮炊きしている人はあまりおらず、最近は調理不要のレトルト食品で済ませてしまう人も多いのかもしれない。昔はキャンプと言えば飯盒炊爨だったので、やはりご飯は手を突っ込んで水加減を調整して炊かないとね、と私は思っている。もちろんコッヘルは使うが。お湯が沸くのにやたら時間がかかった割に、ご飯は意外に早く炊けたので、そう口にすると孫が、「うちではご飯はああいうので(電気炊飯器)炊いて、お湯はピッと(電気ケトル)と沸くでしょ。だからじゃない?」と、何やら鋭い指摘をするので驚いた。電気製品に慣らされてきた感覚なのかもしれない。  

 テントもフライシートのないものがかなりあったうえに、グラウンドシートとテントが一体になっておらず、5cmほどの隙間が空いている簡易テントすら見受けられて驚いた。あれで風雨や夜露に耐えるのだろうか。雨こそ降らなかったが、フライシートの内側はびっしょり濡れていたし、夜間にはテントが揺れるほど風が一時的に強まった。周囲のテントの大半はポールがスリーブと呼ばれる筒状の場所を通す形になっており、その出し入れに結構手間がかかりそうだった。  

 青年小屋では降るような満天の星空を見た思い出があったが、就寝するころは曇っており、月が昇ると満月に近くてあまりにも煌々としていて、ときおり霧も発生したため、星は明るいものしか見えなかった。娘もいつもテントで熟睡する子だったが、孫も結局、明け方まで一度も目を覚まさずに寝通し、私が夜中にヨタカが飛びながら鳴いていたと話すと、「なんで起こしてくれなかったのよ〜」とむくれていた。私は周囲のテントの物音や話し声が気になって細切れの睡眠しか取れなかった。  

 翌朝、古いバーナーを再度試してみると、今度はうまく着火したので、娘が好きなオートミールの朝食を食べたあと、7時ごろ出発して編笠山の山頂を目指した。自分の身長をはるかに超えるような岩塊がごろごろする場所を、孫は怖がる様子もなく果敢に登っていった。少し前までジャングルジムもてっぺんまで登れない怖がりだったのに、随分成長したものだ。私はと言えば、前日の登りで足が疲れていたことや、二晩つづきの睡眠不足、それに薄い空気なども重なって遅れがちとなり、一緒に登れるのはもうあと何年もないなと思った。こんな岩場を、60 代後半になるまでよく母が何度も登ったなと思う。登山ブームの昨今、70代後半のような人を含む年配者のパーティにも何回も出会ったので、日頃から運動して体力を維持できれば、あと10年くらいは登れるのだろうか。  

 2524mの山頂に立った私たちを迎えるように、富士山から南アルプス、そして権現、ギボシ、赤岳、阿弥陀岳など、昔登った山々がぐるりと見えて壮観だった。娘と孫がスケッチを楽しむあいだ、私は山頂でコーヒー、ココアを用意する係を命じられ、カフェを開くことに。5歳でこの山のてっぺんでココアを飲んだことを、四半世紀後、半世紀後にでも孫が思いだしてくれるなら、お安いご用だ。背負ってきた予備の水が軽くなるのもありがたい。  

 下山は、山頂から押手川まで一気に下るルートを通ったため、脚の短い孫はかなり苦戦し、この区間はコースタイムの2.5倍もかかってしまった。朝4時半から起きだしてしまったこともあって途中で眠くもなり、つい無駄口ばかり多くなる孫を励ましながら、何とか観音平まで2時過ぎにたどり着いた。ストレッチ体操が効いたと見え、私の膝も最後まで元気に働いてくれた。  

 編笠のあとはソフトクリームでしょ、とばかりに、そのあとは清里の清泉寮まで有名なソフトクリームを食べに行った。清泉寮は、清里と大泉から一字ずつ取ってつけた名称だそうで、ポール・ラッシュの名前はたぶん澤田美喜さんの本で読んだなと思い出した。復路は娘一家の車に同乗させてもらった。途中、中央高速が大渋滞していたため迂回路を通り、8時半過ぎに帰宅し、「無事に帰ってきたよ」と、母の遺影に報告した。


 青年小屋の朝のテント場

 押手川付近

1995年に青年小屋でテント泊したあとギボシから。

1994年に編笠山の頂上で

1998年ごろか

編笠山頂上。まだ同じ標識が立っていた

 編笠山頂上

 乙女の水を汲む孫

 登りの途中で出会ったメスのシカ
今回の旅での唯一のスケッチ

2024年7月3日水曜日

上田日帰り調査

 忙しかったうえに体調も思わしくなかったため、ブログをサボってしまっていたが、ようやく先月なかばの日帰り上田調査のことなどを備忘録程度に書いた。やる気になったきっかけの一つは、先日たまたま上田の「松平神社文書」が話題になり、その後、以前にお世話になったことがある和根崎剛氏の「史跡上田城址整備事業の現状と課題」(平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書)の論考を見つけことだった。  

 7年ほど前に上田市立博物館で閲覧した祖先の記録に「松平神社文書」と書かれており、その後、何かの折に「しょうへい」神社と読むことを教えていただいたはずなのだが、そんなことすら私の記憶からすっぽり抜けてしまっていた。松平神社がいつのまにか真田神社になってしまったことは、松平家のご子孫が以前に嘆いておられたので記憶に残っていたが、神社そのものが明治12(1879)年に松平氏の祖先を祀る松平神社として創建されたことはしっかり認識していなかった。  

 和根崎氏によると、廃藩置県後、城郭は大蔵省に引き渡されて払い下げられ、本丸の土地を取得した上田藩御用達商人の丸山平八郎直義が神社用地として寄付したのが始まりで、氏子のいないこの神社は、松平氏旧臣とその子孫が管理運営しているという。丸山氏はその後、現在も西櫓として残る本丸隅櫓を旧藩主の松平忠礼に献納するとともに、遊園地用地として本丸の残り部分も寄付し、明治20年ごろから上田市が公園として整備するようになったらしい。神社そのものは、戦後の1953年に上田神社となり、さらに1963年には眞田神社と改称されているが、一応、真田氏、仙石氏、松平氏の歴代城主を祀っている。  

 このあたりには、上田の人びとの複雑な思いが反映されていそうだ。わずか40年しか城主でなかった真田家にとくに縁があるわけでなくとも、上田市民のアイデンティティとして歴史は残したい。ただし、明治になってようやく武士の世から解放されたのだから、166年間も圧政を敷いた松平家はご免こうむりたい、という感じなのだろうか。最後の2代の藩主、松代忠固・忠礼がほぼ江戸にいたことも関係しそうだ。母方の家は戦後の数年間を松代で過ごしており、祖母が「真田の奥さま」の主催する会にいそいそと出かけていたとも聞いている。真田家は地元を離れなかったのかもしれない。ちなみに、仙石氏の世は85年間だった。

 上田市立博物館そのものは、博物館のホームページも参照すると、昭和4(1929)年に西櫓を「徴古館」として開館した。太平洋戦争直前の1941年に、市内の遊郭に移築されていた本丸隅櫓2棟が東京の料亭に転売される話が出て、市民がこれを買い戻して戦後の1949年に南櫓、北櫓として再建され、上田神社と改名された同年の1953年にこの2棟を加えて「上田市立博物館」として登録された。現在の本館は1965年に落成した。  

 先日、私が拝見した数々の史料は、こうした紆余曲折を経て現在に残る記録だったのだ。なかには虫食いだらけでページとページがこびりついて、なかなか開けない史料もあったが、それらは松平神社の倉庫の片隅で激動の一世紀間、ひっそりと保存されていたのかもしれない。戊辰戦争をはじめ、その後の大震災や空襲等で過去の記録が一切失われてしまった地域も多々あるなかで、上田が比較的平和な時代を過ごしてきたおかげでもある。  

 調査そのものは、短い時間を有効に活用しようと、事前に研究者の方々からいろいろな情報を仕入れ、入念に用意していった甲斐あって、予定していた史料は調べあげ、その他いくつか当てずっぽうに選んで閲覧した史料のなかにも、思いがけない発見があった。  

 直接の祖先に関しては、今回新たに得られた情報は残念ながらわずかで、だいぶ昔の祖先が、いったん妻の弟を養子にしたものの、妾に子ができたため、そちらを後継にしたという拍子抜けする記述だけだった。ただし、前回の調査で偶然に嘉永5年の地図で見つけた祖先の家の場所は、いまの地図とよく照らし合わせた結果、ここと思う場所をもう一度訪ねてみた。  

 画期的だったのは、博物館での調査後、事前にダウンロードしておいた「バイクシェア」なるアプリを使って電動アシスト自転車を借りて、願行寺を経由しつつ、佐久間象山が若いころ松代から馬で通ったという活門禅師の遺跡を訪ねたことだ。こちらは事前の下調べ不足で、遺跡が実際には3か所もあることに気づかず、わざわざ遠い岩門大日堂跡に迷い込むはめになったが、観光地とは程遠い農村地帯で、ちょうど田植え後の美しい田園風景のなかを、夕陽を浴びながら自転車ですいすいと走ることができた。  

 借りた自転車は、しなの鉄道の信濃国分寺駅で乗り捨てし、そこからさらに数駅電車に乗って滋野まで足を伸ばした。前回のコウモリ通信に書いたように、そこに高祖父が何かしらかかわった可能性がある「力士雷電之碑」が現存するからだ。グーグルマップで上田からの自転車ルートが出てこなかったため、しなの鉄道に乗ったのは正解だったが、地図上では駅から石碑まで数百メートの距離のはずが、往路はひたすら登りの坂道で、民家の正面に忽然と現われた2基の石碑にたどり着いて、何か手掛かりはないかと周囲を足早にめぐったころには、復路の電車時刻まであと5分しかなくなっていた。前後の乗り継ぎを調べておらず、とにかく駅まで走ろうと下り坂を猛ダッシュした。どうにか発車間際の電車に飛び乗ったものの、あまりに息が上がってしまい、滋野駅にあった力士雷電の大看板も、全国の田中さんが詣でるという隣の田中駅に着いたころもまだ回復せず、写真を撮り損ねてしまった。

 その後、新幹線の乗り継ぎが悪くて、結局、上田駅の六文銭の下でおやきを食べながら、だいぶ時間をつぶすことになった。それでも、9時過ぎには無事に帰宅することができ、実りある1日となった。

上田城址公園の時の鐘。数百年にわたって上田で時を告げてきた鐘だったが、戦時中の金属供出させられ、戦後に新しく鋳造したもの。

城址公園内に翻る各家の幟旗。後方に見えるのが南櫓と北櫓。

嘉永年間に祖先が住んでいたと思われる一帯(右手)。『上田歴史地図』には、「道に面したところは門倉門蔵ら三名の住居があり、鈴木六郎家の横から細い道をつけ、中央と奥の部分に長屋が置かれている」と書かれていた。

電動アシスト自転車で田園地帯を走った。

活文禅師の岩門大日堂跡
力士雷電之碑。手前にあるのが表面がすべて削られて判読不能になったという古い碑