娘がインドへ行く前に、やっつけ作業で準備した「おさんぽ絵本原画展」は何とか無事に開催できているようだ。うちではたいがい手持ちの額を使い回して展示のイベントを切り抜けている。先週末、中央図書館に調べ物をしに行った帰りに、私もようやく弘明寺まで行って、児童書専門店クーベルチップのお店の壁一面に飾られた絵を見てきた。
来春の姉のピアノリサイタルのチラシも、12月初めまでという姉の希望より大幅に早く刷り上がってきた。古いPCにしか入っていない、かなり古いバージョンのPhotoshopを久々に立ち上げて試行錯誤し、背景に使った写真も、近所で適当に撮った雲の写真を背景に入れてごまかした割には、一応それらしいものが出来上がった。今回は旅をテーマにした曲を集めた企画とのことで、3月22日19時から横浜のみなとみらい小ホールで開催する。クラシック音楽好きで、ご都合のつく方がおられたら、予定を入れておいてくださると嬉しい。
もちろん、本業の翻訳にも鋭意取り組んでいるが、今回の仕事はかなり厄介な思想史の本であるうえに、本文だけでも400ページを超え、カタツムリのような進捗状況だ。いま訳している箇所は、以前に訳したトリストラム・ハントの『エンゲルス』や、『アマルティア・セン回顧録』にも通じるし、先日参加させていただいた赤松小三郎研究会の田中優子先生ほかの講演会でも話題になっていた「共和」に関する考察もずいぶんあった。関連書籍をじっくり読んで考えてみたいところだが、いまはとにかく翻訳マシンに徹するしかないのが悲しい。
ほかにも身近なところで頭の痛い問題が発生し、生まれて陳情書のようなものを書き、ご近所の方々の協力を得て若干の署名も集めて役所に提出するはめにもなった。ちょうど講演会で、江戸時代の百姓一揆は首謀者がかならず死罪となったため、言い出しっぺが誰かわからないよう、傘連判状と呼ばれる円形の署名をしたという話を聞いたばかりだったので、提出するに当たってはかなりの緊張を強いられた。そんな話をしたところ、娘の夫の祖先の家からもそういう書類が出てきて、横浜市に寄贈していたことなども判明した! いつか現物見に行かねば。この件は幸い、とりあえずの解決を見ており、私の首もいまのところつながっている。
こうした「雑用」のほかに、数年前から参加させていただいている松平忠固と生糸貿易研究会のための論文をようやく書き上げたと思ったのも束の間、私が書いたものは再査読の対象となって大幅な書き直しを命じられている。
相変わらず落ち着かないなか、じつは細々と始めていることがある。やはり祖先調査をされている上田藩つながりの方が、上田図書館で幕末に作成された私の祖先の家の史料を見つけてくださったのだ。この数年間、断片的な記録はいくつか見つかっていたものの、今回の史料は格別だった。何しろ、古い時代のことがかなり書かれていたほか、上田藩にいた期間の祖先の諱や妻の出身の家(名前は不明)や、娘の嫁ぎ先、養子先を含む系図が含まれていたのだ。
何より驚いたのは、冒頭に「本氏桃井」、「桃井播磨守直常之後胤」と書かれていたことだ。もとは桃ノ井姓で、北関東の出身らしいと親戚から聞いたことはあったが、文字で見るのはこれが初めてだった。中世史にはまったく疎く、桃井直常など名前も聞いたことがなかったが、橋本左内もこの人の子孫だと称していたらしい。左内が京都で入説活動をしていた折に、桃井伊織の変名を使っていたことは以前から気づいていたが、まさか本当につながりがあるとは思いもよらなかった。
もっとも、今回の史料では、中世の肝心な時代については、横瀬村、阿賀野村などの郷士として各地を転々としながら「数代ヲ経テ」と省略されている。地元の伝説的な敗軍の将を祖先に仕立てたとか、代々そう信じ込んできた可能性もある。幕末の志士はよくそんな出自を自称しているし、実際、北阿賀野村の桃井可堂もまさにそういう人物だったらしい。
祖先がその後、岩槻から佐倉へ転封になった戸田忠昌に仕えたことは、別の史料からも判明していたが、今回の史料を見ると一代限りだった可能性がある。次の世代は出石藩時代の松平忠周に召し抱えられており、その後、忠周が上田へ転封になったため、以後は幕末まで上田藩にいた。
折よく、昨年刊行された『桃井直常とその一族』という本を見つけたので、隙間時間に拾い読みしながら、まずは時代背景を勉強している。今回の史料から判明したいくつかの村名を地図で探してみると、渋沢栄一の血洗島を囲むように存在する地名だった。暑くなる前に、レンタサイクルでこの広大な田園地帯を走ってみたい。
(松山充宏著、戎光祥出版、2023年)
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