その大半は、娘が来月、一週間弱ながらブッカルーという児童書のフェスティバルに招かれてインドに行くためで、それに合わせて「万障お繰り合わせ」をしているからだ。ただでさえ多忙な娘は、ほかの多数の仕事や用事を前倒しで進めねばならないうえに、今年から厳しくなったというインドのビザ取得でも手こずり、パンク寸前だ。同じ期間に弘明寺の子どもの本専門店クーベルチップで、「おさんぽ絵本原画展」を開いていただくことが以前から決まっていたので、そのための準備も出発前にすべて終わらせなければならない。額装の仕事は毎度のことながら、私に回ってくる。いつもは娘が引き受けてくれている姉のピアノリサイタルのチラシづくりも、今回は私がせざるをえなくなった。
やらねばならないことだらけでストレスが溜まると、私の場合、逃避行動で妙な工作を始めることが多い。孫の面倒を見ている時間につくるものが大半なので、「ベビーシッターが勝手に遊んでいる!」と娘によくからかわれている。ときには休日の朝から、一時間だけ、と自分に言い聞かせながらつくり始めることもある。娘からの要望に応えて、この数年ときおり実験している草木染めなどは、できる季節が限られているので、優先度を上げて仕事に割り込ませている。
前回のコウモリ通信にちらりと書いた黒染めも、あのあとザクロが使えることを思いだし、近所の小学校の高台にある木から実が落ちてくるのを待ってみた。よく道路に潰れた実が落ちているのを横目で見ていたからだ。ところが、いざ欲しいときには、一向に落ちてこない。しびれを切らして染色用のザクロを注文した矢先に、ポトリと2個も落ちているのを見つけたときは、何とも悔しかった。草木染めの面白さは、身近な場所で材料を拾い集めてできることにあると思っているからだ。 道端に落ちていた実でもザクロはかなり黒く染まったが、私の適当なやり方では多少緑味のある焦茶止まりだった。それでも、これまでに試したどの素材よりも黒髪に近く、それでとりあえず満足することにした。
先日は、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』がストップモーションで撮影した古い映画(Totti: The Story of a Doll’s House)がネットで公開されていることに気づき、何回かに分けて孫と一緒に観た。ことりさんがピンクの羽ぼうきで掃除をしながら歌う場面が大いに気に入ったようだった。ならば羽をピンクに染めてつくってみようと思いたち、道端のヨウシュヤマゴボウを失敬して、孫が拾い集めた羽のコレクションから数本抜いて染めてみた。羽もタンパク質だからきっと染まるだろうと予想したとおり、濃いピンクに染まったときはちょっと嬉しかった。孫は喜んで「Dusting, dusting……」と歌いながら、それを使って私が昔つくった埃だらけの人形の家の掃除を始めた。もっとも、羽ぼうきはその後すぐに行方不明になり、数日後にまた見つかったそうだ。
『かぶとむしランドセル』(ふくべあきひろ作、おおのこうへい絵、PHP研究所)という本を娘が図書館で借りたところ、カブトムシをこよなく愛する孫が気に入って何度も読まされたこともあった。なかなかよく考えられたランドセルで、イラストを眺めているうちに、ふと思いだしたものがあった。その昔、焦茶色のバックスキンで娘につくってやったムーミンに出てくるルビーの王様入りの小さなトランクだ。いかにもカブトムシ色のその革の残りはまだ裁縫箱の底に入っていた。翌日それを持参して、娘宅の裁縫セットでつくり始めたものの、針と糸の太さがミスマッチで、糸通しもなく、おまけに焦茶色の革ではどこを縫っているのかよくわからず、往生した。
家にもち帰って少しだけ修正した際に、ランドセルに爪楊枝の鉛筆と筆箱を入れてやったところ、孫はえらく喜んでくれたが、これまたすぐになくしてしまった。孫は私に似たのか、ものの管理が悪い。後日、爪楊枝を差しだして、これを3つに切って、先端を削ってくれというので、そのとおりにしたら、自分で色を塗って人形用の鉛筆をつくっていた。
こんな調子でひとしきり何かをつくると、仕事しなくちゃっ、という罪悪感だかエネルギーだかが湧き、またパソコンの前に座れるようになる。工作は私にとって大きな息抜きなので、もうしばらくつづけられるように、ひと段落がついたら眼科に行くなり、ハズキルーペを買うなりしよう。
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