地図からはよくわからなかったが、現地を訪れた結果、高祖父が始めた材木店は、いまの靖国通りからお茶の水仲通りをわずかに入ったところにあったことが判明した。明治16年の「東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯島近傍」という地図(国際日本文化研究センター・所蔵地図データベース)では、この通りの突き当たりの甲賀町に「戸田邸」と書かれた大きな屋敷がある。明治32年の『東京名所図会』が高祖父の店を「戸田邸前通りにあり」と書いていたのは、お茶の水仲通りを指していたのだった。しかも、このお屋敷は戸田伯爵、つまり大垣藩の戸田氏共の邸宅だった! ラトガーズの留学生の古写真を調べるなかで、譜代藩主でありながら早々に新政府軍に恭順し、のちに鹿鳴館の華となった岩倉具視の三女を妻にした若者、戸田氏共は印象に残った一人だった。ウィキペディアの「戸田氏」によると、いわば維新の勝ち組であるこの家だけが、戸田氏のなかで伯爵に叙せられたという。靖国通り沿いの戸田忠行は足利藩主で、宇都宮藩戸田家の分家だった。曽祖母が嫁いだ門倉の家は上田藩に入る前、佐倉藩時代のこちらの戸田家に仕えていたことが判明している。
明治16年刊のこの非常に詳しい一連の地図は、2019年にこの高祖父が初め深川熊井町に住んでいたことがわかった際に、図書館で何枚かコピーしていたもので、いまはネット上でも簡単に見られる。「麹町区大手町及神田区錦町近傍」では、いまの靖国通り沿いに長屋のようなものがあり、「戸田邸前通り」に入った先に2軒ほど家がある。材木店はそのいずれかではないかと思われる。
図書館から『神田まちなみ沿革図集』(Kandaルネッサンス出版部編、1996年)という大型本を借りてみたところ、昭和10年ごろの小川町の再現地図のほか、明治20年ごろ、建設途中のニコライ堂から撮影された360度のパノラマ写真が掲載されていた。撮影者は写真師の田中武ではないかと同書は書く。ニコライ堂は、私の曽祖母が2歳のころに建設工事が始まり、高祖父が土蔵を建てたのはちょうど明治20年だった。13枚に分けて撮影されたパノラマ写真のうち、小川町のこの一角が写っているはずの写真は1枚しかなく、同書では第8葉がそれに当たる。このパノラマ写真は国会図書館デジコレの『明治二一年撮影全東京展望写真粘』(昭和7年)でもかなり鮮明な画像を拡大して見られ、こちらでは7葉となっている。
双方の書籍の説明からすると、手前にある広大な長屋門のある屋敷が甲賀町5番地の住友控邸で、その隣にわずかに戸田伯爵邸の庭が写っている。住友控邸はその後、「首相西園寺公望の邸宅となり、国木田独歩が居候していた時期も」あり、「ちなみに公望の秘書は同じ駿河台の原田熊雄男爵」だと『神田まちなみ沿革図集』は解説する。あれっ?確かこの人は、と思って調べると、記憶どおり蕃書調書や開成所で教えた原田敬策(一道)の孫だった。私の別の高祖父、門倉伝次郎は幕末に西洋馬術関連の「蘭書ネツテント」を訳したと言われていたが、実際にはこの原田敬策に依頼し、「翻訳せしめ」たらしいことが、拙著『埋もれた歴史』の刊行直前に判明していた。原田はその後、大いに出世している。この西園寺邸と戸田邸を譲り受けた場所に中央大学が大正13年から1980年代まであったが、現在は三井住友海上火災本社ビルとなっている。住友に戻ったということか。
パノラマ写真の画面中央奥にある大きな建物は英吉利法律学校(創立時の中央大学)で、手前が小川町である。そのさらに先の広い敷地は学習院焼跡、霞んでよく見えないその先には、陸軍軍馬局や大蔵省、内務省、富士見三重櫓などがある。小川町と書かれた一帯へ、右下から斜めに通じる道が見え、それが「戸田邸前通り」だろう。いまの靖国通りに突き当たる辺りには、小ぶりながら黒っぽくて目立つ建物がある。その特徴的な建物は、『東京名所図会』の「神田小川町通りの図」のほぼ中央に描かれていた建物と同一と考えてよさそうだ。ということは、高祖父の材木店は「戸田邸前通り」を挟んだ左手の屋根のどれか、ということになる!
小川町北部2丁目町会のサイトによると、『東京名所図会』の絵図の右から3軒目の門柱のある建物は、明治2年創業の銭湯だという。山城淀藩、稲葉丹後守の重臣がお屋敷の一角を譲り受けて開業し、「稲」は稲葉から、「川」は小川町から取って命名したそうだ。稲川楼はのちに裏通りに移ったらしく、実際、1992年に閉店したころの稲川楼の写真の右隣には大宮ビルが写っていた。跡地は平和堂ビル駐車場となり、野田忍著・写真『銭湯へ行こう・旅情編』(TOTO出版、1993年)によると、「稲川楼の地主でもある平和堂靴店がビルを建設することになり、そのため稲川楼は廃業」したそうだ。この本では、平和堂の主人の佐宗家がこの地にもともといた武家となっており、一方、田村隆一著『ぼくの憂き世風呂』は、稲川楼の経営者は山田剛平氏と書いていて、どちらも淀藩士の子孫なのかはよくわからない。大正12年創業という平和堂靴店は、昭和10年ごろを再現した『神田まちなみ沿革図集』では靖国通りとお茶の水仲通りの角地にあった。この地図には、大宮さんの土蔵らしきものも描かれているが、材木店は廃業していたのか、跡地には喫茶、床屋、酒店が書き込まれている。ウェブ・マガジン『ミューゼオ・スクエア』によれば、平和堂靴店は1993年には10階建ての平和堂ビルに建て替えられたものの、お店は2006年に閉店し、いまはビル名も「いちご神田小川町ビル」と改名されている。
この記事を書くために、銭湯のエッセイなどを読んでいたら、小川町2-8という、大宮さんの隣のブロックに、1954年から1989年まで筑摩書房があったことなどもわかった。そのさらに隣のブロックには、以前にお世話になった別の編集者の事務所があったことは、十年以上前に小川町を最初に探検した際に気づいていた。夏目漱石のゆかりの地でもあるので、いずれ小説を読み返してみよう。
ついでながら、高祖父が小川町に引っ越す前に住んでいた深川熊井町という町名も、明治16年の地図の「日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」に確認できる。番地が書かれていないので、正確にどこに住んでいたかは不明だが、2022年にこの付近は歩いてみたことがある。佃島のマンション群が目の前に見え、すぐ上流には永代橋が架かる。運河が張り巡らされたこの一帯なら、材木問屋業にはお誂え向きだ。
最後に、大宮さんの土蔵から千代田区に寄贈された古い食器類については、日比谷図書文化館の常設展を見てみたが、もっと古い発掘品のようなものばかりで、それはそれで面白かったが、案の定、見られなかった。日を改めて文化財事務室を訪ねてみることにしよう。
「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍」(部分)明治16年平和堂靴店があった角。現在はいちごビルがあり、隣が大宮ビル
「東京府武蔵国日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」(部分)明治16年
熊井町だった付近 撮影2022年3月
佃島を望む 撮影2022年3月


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